高取焼も上野(あがの)焼も共に福岡県の焼き物ですが、秀吉による朝鮮出兵の文禄、慶長の役後に
朝鮮よりの渡来人の手によって新たに興った窯です。
但し、唐津焼が大いに発展したのに対し、この両窯では大きな発展は見られませんでした。
その理由は、領主の御用窯として活動し、陶工の数も少なかった為とも言われています。
1) 高取焼。
高取焼は、筑前博多五十二万石の領主の黒田藩の御用窯として始まります。
? 窯を任されたのは、八山(はさん、八蔵)と呼ばれる渡来人と言われています。
その他に八山の妻の父である渡来人の井上新九郎も、開窯に加担した様です。
慶長五年(1600年)黒田長政が筑前に入国した頃に窯が築かれます。
築かれた場所は鷹取の古城山の山麓、即ち現在の永満寺宅間窯(一般に鷹取山の窯)と呼
ばれる処と見なされています。
?) 上記の窯で、どの様な焼き物が作られていたかは、ほとんど不明で伝来品は皆無でした。
この窯の操業が数年で終わった事と等から、試験的に作られた可能性もあります。
近年、発掘調査などで、窯跡から壷、鉢、片口、皿類の破片が出土しますが、荒い土に
藁灰による海鼠(なまこ)釉が掛けられた物と判明し、再発見される事になります。
?) 慶長19年黒田家支配の鷹取城が廃城になると、永満寺の窯も廃止になります。
その後、寺の東北の内ヶ磯に新たに窯が築かれます。
この窯で焼かれた作品は、従来唐津焼きと見なされてい物ですが、陶芸家の高鶴元氏
(こうづるげん)の陶片収集により、内ヶ磯窯で焼成された事が判明します。
・ 高鶴元氏が収集した陶片には、片口、擂鉢、皿類など一般庶民が使う日用雑器の他、
抹茶茶碗、茶入、水指などの茶陶の他、高級食器類も多く含まれています。
?) 特に後世に高名なと呼ばれる斑唐津茶碗は、全てこの窯で焼かれたと言っても過言では
ないそうです。唐津の藤ノ川窯で焼かれた叩の朝鮮唐津と同様な作品も、この窯で焼成
されていました。更に、藤ノ川窯よりも優れた作品も多く存在しています。
? 黒田長政の子忠之の代に、山田唐人谷の窯、豊前の釜の口窯が開かれ、寛永七年(1630年)
藩の御焼物場(窯)が穂波郡の白旗山の北山麓に作られます。
この窯から、小堀遠州好みの茶道具、即ち茶入、水指、食器類が多く作られる事になります
但し、初期高取の焼き物が唐津風のものであったのに対し、腰の張った織部風の沓茶碗
などが作られる様になります。
? 「高取歴代記録」によると、八蔵父子が京都伏見に派遣され、小堀遠州の好みを請けて茶器を
制作した記述がありますので、何らかの影響があったと思われます。
これらの作品を「遠州高取」と呼ぶ場合もあります。
?) 小堀遠州(1577〜1647年)は安土桃山〜江戸初期の大名(備中松山二代藩主)、茶人、
建築家、作庭家であり、特に古田織部後の茶道界をリードした人物です。
?) 初期高取の荒い土から、細かい土を使い轆轤挽きした茶碗や茶入等の作品に「銹(さび)
くすり」と呼ばれる銀茶色の鉄釉や、黄味を帯びた失透灰釉が掛けられた、遠州好みの
「綺麗さび」の茶器をが制作されます。
? 歴代の黒田藩主は各地に積極的に御用窯を築きますが、7世紀後半を過ぎる頃から、形式的な
作風になり、綺麗ではあるが、面白味の無い作品に成ったと言う見方もあります。
尚、民需品も藩の専売品として焼かれていた様です。
以下次回(上野焼)に続きます。
朝鮮よりの渡来人の手によって新たに興った窯です。
但し、唐津焼が大いに発展したのに対し、この両窯では大きな発展は見られませんでした。
その理由は、領主の御用窯として活動し、陶工の数も少なかった為とも言われています。
1) 高取焼。
高取焼は、筑前博多五十二万石の領主の黒田藩の御用窯として始まります。
? 窯を任されたのは、八山(はさん、八蔵)と呼ばれる渡来人と言われています。
その他に八山の妻の父である渡来人の井上新九郎も、開窯に加担した様です。
慶長五年(1600年)黒田長政が筑前に入国した頃に窯が築かれます。
築かれた場所は鷹取の古城山の山麓、即ち現在の永満寺宅間窯(一般に鷹取山の窯)と呼
ばれる処と見なされています。
?) 上記の窯で、どの様な焼き物が作られていたかは、ほとんど不明で伝来品は皆無でした。
この窯の操業が数年で終わった事と等から、試験的に作られた可能性もあります。
近年、発掘調査などで、窯跡から壷、鉢、片口、皿類の破片が出土しますが、荒い土に
藁灰による海鼠(なまこ)釉が掛けられた物と判明し、再発見される事になります。
?) 慶長19年黒田家支配の鷹取城が廃城になると、永満寺の窯も廃止になります。
その後、寺の東北の内ヶ磯に新たに窯が築かれます。
この窯で焼かれた作品は、従来唐津焼きと見なされてい物ですが、陶芸家の高鶴元氏
(こうづるげん)の陶片収集により、内ヶ磯窯で焼成された事が判明します。
・ 高鶴元氏が収集した陶片には、片口、擂鉢、皿類など一般庶民が使う日用雑器の他、
抹茶茶碗、茶入、水指などの茶陶の他、高級食器類も多く含まれています。
?) 特に後世に高名なと呼ばれる斑唐津茶碗は、全てこの窯で焼かれたと言っても過言では
ないそうです。唐津の藤ノ川窯で焼かれた叩の朝鮮唐津と同様な作品も、この窯で焼成
されていました。更に、藤ノ川窯よりも優れた作品も多く存在しています。
? 黒田長政の子忠之の代に、山田唐人谷の窯、豊前の釜の口窯が開かれ、寛永七年(1630年)
藩の御焼物場(窯)が穂波郡の白旗山の北山麓に作られます。
この窯から、小堀遠州好みの茶道具、即ち茶入、水指、食器類が多く作られる事になります
但し、初期高取の焼き物が唐津風のものであったのに対し、腰の張った織部風の沓茶碗
などが作られる様になります。
? 「高取歴代記録」によると、八蔵父子が京都伏見に派遣され、小堀遠州の好みを請けて茶器を
制作した記述がありますので、何らかの影響があったと思われます。
これらの作品を「遠州高取」と呼ぶ場合もあります。
?) 小堀遠州(1577〜1647年)は安土桃山〜江戸初期の大名(備中松山二代藩主)、茶人、
建築家、作庭家であり、特に古田織部後の茶道界をリードした人物です。
?) 初期高取の荒い土から、細かい土を使い轆轤挽きした茶碗や茶入等の作品に「銹(さび)
くすり」と呼ばれる銀茶色の鉄釉や、黄味を帯びた失透灰釉が掛けられた、遠州好みの
「綺麗さび」の茶器をが制作されます。
? 歴代の黒田藩主は各地に積極的に御用窯を築きますが、7世紀後半を過ぎる頃から、形式的な
作風になり、綺麗ではあるが、面白味の無い作品に成ったと言う見方もあります。
尚、民需品も藩の専売品として焼かれていた様です。
以下次回(上野焼)に続きます。