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Channel: わ! かった陶芸 (明窓窯)
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焼き物の着物(色彩)73 高取焼と上野焼2 

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上野(あがの)焼は、豊前(現在の福岡県)小倉に三十七万石の居城を構えた、細川藩の藩主細川

忠興(号は三斎)が1602年(慶長七年)以降に興された御用窯です。「三斎公のたのしみ窯」と

言われたそうです。

 注: 細川三斎(1563〜1646年)は、千利休の弟子で利休が秀吉の怒り受け、京から堺に

 下る際、古田織部と伴に伏見まで見送った事でも知られる茶人です。

1) 上野焼の開窯。

  尊楷(そんかい、上野喜蔵)なる渡来人が、細川氏の命により、現在の小倉市の中心部近くに、

  登窯を築いたと言われています。尚、現在でもはっきりした場所は特定できていません。

  この窯の存続期間は短期間で、慶長の末頃には田川郡赤池町上野に移動します。

  秀吉の朝鮮出兵の慶長の役の際、加藤清正に従い渡来した尊楷(そんかい)が、細川氏が小倉

  入りした後、細川氏に招かれたとの事です。

2) 古上野焼: 細川氏が肥後(熊本)に移る迄の約30年間に作られた焼き物を言います。

 ? 窯跡は皿山本窯、釜の口窯、岩谷窯が主要な窯で、場所は現在の上野町の東北にある禅寺の

  興国寺の北側の山麓にあります。尊楷の三男の孫がこの地に留まり、皿山本窯は現在でも操業が

  続いていますが、他の二窯は短期間で終わっています。(寛永九年頃に廃窯されます)

  尚、釜の口窯が尊楷によって最初に築かれた窯とされています。

 ? 釜の口窯は昭和30年に、日本陶磁器協会によって発掘調査が行えあれています。

   窯は全長41m、半分地上連房式登窯で、胴木間と窯尻を含めて17室の窯である事が確認され

   ます。(上野古窯調査報告書:昭和30年、日本陶磁器協会)

   この規模は古唐津系の窯と、同程度と考えらています。

   出土品から、多くは一般的な片口、擂鉢、皿が多いですが、抹茶茶碗や茶入、水指、向付など

   の茶陶が焼かれていました。

 ? 古上野焼の特徴。

  ?) 高取焼の内ヶ磯窯の出土品が、古田織部好みの歪みの強い作為のある作品が多いです。

    しかし、古上野では利休の茶風を重んじる細川三斎の好みの影響で、無作為な作品が多い

    です。中でも、茶人の間で重宝された割山椒向付が、この窯の特徴になっています。

  ?) 成形は轆轤、叩き、型造り等の方法で、生地が薄く軽量に出来ています。

    釉は藁灰釉、灰釉、鉄釉が使用され、鉄絵を施した物、釉による片身分(かたみわけ)

    など、基本的には唐津焼と同じです。

  ?) 釜の口窯の東方の谷間に岩谷高麗窯と呼ばれた窯がありました。この窯も一般的な碗や

    皿類など、多の陶片が出土しますが、高取の内ヶ磯窯と極めて似た作品が作られています。

    これは、1624年に内ヶ磯窯が廃止になり、一部陶工がこれらの窯場に移住した為と思われ

    ます。

  ?) 尊楷、長男忠兵衛、三男藤四郎は細川氏と伴に、肥後に移転し八代焼を開いたと言われて

   います。

 ? 小笠原時代の上野。

   寛永二年(1625年)に上記赤池町上野皿山に上野皿山本窯が築かれます。

  ?) 細川氏が肥後(熊本)に移った後、新藩主に小笠原の御用窯として栄えます。

    但し、小笠原時代の作品は、古上野の様な風格のある作品は作らなくなります。

  ?) 小笠原氏の「御用窯」は、紆余曲折を得て二百数十年続く事になります。

    窯を指導したのは、尊楷の三男の孫の孫左衛門や、その親類の渡久左衛門達ですが、

    その後、十時家、渡家、吉田家の三氏が窯主となり、共同経営が行なわれています。

    この窯では、独特な紫蘇(しそ)釉、鮫膚(さめはだ)釉や、「上野緑釉」と言う銅を呈色

    剤にする緑釉が作られ、鉄釉、灰釉、上野銅釉を掛け合わせて「上野三彩」が作られます。

以下次回「薩摩焼」に続きます。

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