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Channel: わ! かった陶芸 (明窓窯)
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焼き物の着物(色彩)36 灰釉陶器(白瓷)6

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7) 白瓷(しらし)の量産化と地方への拡散。

  ? 10世紀に入ると、猿投窯や尾北窯などの尾張での灰釉陶器である白瓷の生産は、技術

    革新と伴に生産が一気に拡大します。白瓷の需要範囲も、東海西部や畿内に限られていた

    ものが、東山道を通じて、中部山岳地帯や多賀城廃寺などの東北南部にまで広がります。

    中部山岳地帯や東北、北関東で出土する白瓷は、主に東濃系の窯で作られたもので、東海〜

    関東に掛けての白瓷は、三河、遠江(とおとおみ)の諸窯で作られたものです。

 ? 10〜11世紀には須恵器の生産は衰退し、白瓷の生産が中心に成ります。

  ?) 作られる器の種類も、高坏(たかつき)、高盤、平瓶などから、椀や皿類を中心に水注、

    各種壷、鉢、合子など需要に応じた、新たな種類の器が登場します。

  ?) 東日本での白瓷の需要は、新興の富裕農民層の増えた事も原因です。

    律令制度の崩壊と、気候の温暖化により農業生産が拡大します。白瓷の需要もこの様な背景が

    有った事が次第に明らかになります。

  ?) 10世紀末〜11世紀には、美濃焼が全国的に使われる様になります。 

 ? 同時期に無釉の椀、皿、盤、瓶類に線彫りの草花、飛雲、飛禽などの文様を付けたものが

   登場します。

 ? 量産化には窯の改良も大きく寄与する事に成ります。

   即ち、底面の傾斜が緩やかになり、椀や皿を十数枚も重ね焼きし効率化を果たす様になります。

   又、焼成方法も燃料を多く使う還元焼成より、酸化焼成する様になり少なくする事も出来、

   更に燻製による炭素の吸収を抑える事で、より美しい白瓷や青瓷(あおし、せいじ)が作れる様

   になります。又、燃焼室と焼成室が分離され、分焔柱を設置し、焔の流れる向きをコントロール

   する事で、ある程度恣意的に焼く事が出来る様に成ります。

 ? 12世紀に入ると、焼成室の容積を著しく拡大させ、更なる量産化を進めます。

    11世紀後半以降、日宋貿易が盛んに成ると、中国より陶磁器が輸入される様になります。

    この輸入品は中央や地方の官衙(やくしょ)、寺院、貴族、上層階級に普及し、猿投窯などの

    焼き物は、他に販路を求める事に成ります。時を同じにして、地方の農村の興隆により、一般

    農民層の需要が増える事で、安価な焼き物を供給する為、量産化が進められます。

    但し、生産の拡大に伴い、素地の粗雑化、轆轤技術の低下、灰釉技術の簡略化などの質の

    低下を招き、粗悪な日常食器を作る事に成ります。

8) 生産地の拡大。

   12世紀(平安時代末)から猿投窯では、山茶碗を中心に山皿などを生産する様になります。

    注: 山茶碗とは、口径15cm前後で、高さは5〜6cm程度の無釉の浅い碗形です。

       山皿は、径が8cm程度の小皿で、山茶碗と一緒に焼かれています。用途は仏飯器や

       灯明台として使われたと思われます。 これらは、大量生産が可能な日用雑器です。

   山茶碗の生産は、次第に愛知県知多半島方面や渥美半島などに移り、猿投窯での生産は、

   徐々に衰退して行きます。

   猿投窯での制作品の変化や、地方への拡散の原因は、当時中国からの陶磁器の輸入の増大と

   猿投窯の支配層(荘園領主、在地領主など)の移動などの他、原料(粘土)や燃料(薪)の枯渇が

   挙げられています。

以上で白瓷の話を終わります。


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