Quantcast
Channel: わ! かった陶芸 (明窓窯)
Viewing all 836 articles
Browse latest View live

焼き物の着物(色彩)67 古唐津 4(奥高麗)

$
0
0
4) 奥高麗に付いて。

  千利休が「ねのこ餅」と呼ばれる奥高麗茶碗を所持していた事はすでに多くの人々によって

  指摘されています。その茶碗が唐津で作られた事も確かの様です。

  筒形(つつなり)と奥高麗茶碗としては、珍しい形です。

  ・ 奥高麗筒茶碗 銘 ねのこ餅(もち): 

    高さ 10.4cm、口径 9.5cm、高台径 5.5cm

    利休所持の三筒茶碗の一つと伝えられ、奥高麗茶碗の古典とも言われる茶碗です。

    尚、他の二点は、高麗茶碗「挽木鞘(ひききのさや)」と古雲鶴「浪花筒(になわづつ)」

    です。

 ? 奥高麗(おくごうらい)の名称の由来。

  「高麗の奥の方の陶工が渡来して唐津で焼きだした物」と古い文献に記載されているとの事です

   注: 高麗は高句麗(こうくり)後の王朝で、918年〜1392年まで続いた朝鮮半島の国です。

 ? 高麗茶碗は室町時代末(16世紀半ば頃)に、「侘び茶」が流行し、我が国の茶道で用いられた

   茶碗の一つであり、朝鮮半島で焼かれた日常雑器を、日本の茶人が茶器に見立てたものです。

  但し、「高麗茶碗」と呼ばれる茶碗は、高麗時代の作品では無く李氏朝鮮(1392〜1910年)

  の物がほとんどと言われています。

  「奥高麗茶碗」は我が国の唐津で作られた高麗茶碗を模倣したものと思われています。

 ? 奥高麗茶碗の特徴。

  ?) 素地は鉄分を含む赤土ですが、細かくねっとりした土と、やや粗めで砂を含む粘土の

    両方があります。

  ?) 奥高麗はほとんどが茶碗で、井戸茶碗風の口が大きく開いた鉢形と、腰に丸みがあり

    口縁がやや内側に抱え込まれた熊川風があります。

  ?) 轆轤挽きされて「ノビノビ」としています。高台は比較的に大きく、高台脇や高台内も

    轆轤による削り出しで、高台中央に兜巾(ときん)が有ります。

    高台脇の削目に「縮緬(ちりめん)皺」が毛羽立ち、長石質の灰釉との相乗効果で

    「梅花皮(かいらぎ)」が現れます。

  ?) 高台周辺の土見では、赤味を帯び枇杷(びわ)色を呈するのが一般的な特徴です。

  ?) 素地と釉との縮み具合の差で釉に「ひび(貫入)」が入り易く、長年使用していると

    釉に変化が出てくる事も多い様です。

  ?) 焼成は酸化焼成が多く、中には還元焔や中性焔で焼成された物もあり、その場合には

    釉面が灰青色になります。これを「白上り」と呼ぶそうです。

 ?  著名な奥高麗茶碗。

  ?) 奥高麗茶碗 銘 深山路(みやまじ): 17世紀始 市ノ瀬高麗神窯系?。

     松江藩主の松平松平不眛公(1751〜1818年)が所持していた、竹節高台で碗形の逸品です

     高さ 7.8cm、口径 14.0cm、高台径 6.1cm

  ?) 奥高麗茶碗 銘 真蔵院(しんぞう): 細川三斉公(1563〜1645年、利休七哲の一人)が

     所持していた名碗です。胴は高く立ち上がり轆轤目が目立つ、小振りで深い碗形です。

     高さ 8.5cm、口径 13.1cm、高台径 4.8cm

  ?) 重要文化財 奥高麗茶碗 是閑(ぜかん)唐津 銘 三宝(さんぽう): 

     唐津の代表的な茶碗として古くから著名な茶碗です。

     高さ 7.6cm、口径 16.0cm、高台径 6.4cm

  ?) 奥高麗茶碗 銘 糸屋唐津: 17世紀始め 唐津としては、古格のある茶碗です。

     元禄の頃の京の目利きとして知られる、茶人の糸屋良斎が所持した茶碗です。

     高さ 7.5cm、口径 15.4cm、高台径 5.3cm

     小石混じりの赤土で、轆轤挽き。小振りな竹節節高台で、畳付きは三日月高台です。

  
以下次回に続きます。


焼き物の着物(色彩)68 古唐津 5(絵唐津1)

$
0
0
朝鮮から渡来した陶工達は、革新的な二つの技法をもたらします。

一つは以前にお話した(割竹式)登窯の使用です。中世までは窖窯(あながま)が使われていました

が、より効率的な登窯が導入されます。 二つ目は蹴(け、又はけり)轆轤の使用です。

従来の轆轤は手回轆轤といわれる物で、回転盤の端に設けられた複数の小穴に、回し棒を差込手で

回転させる方法で、成形途中で回転力が落ちた時、手を止め棒を握り回転力を与える必要があります

即ち、蹴轆轤ならば、連続して制作が可能で制作能力も格段に上昇する事になり、唐津焼が急速に

普及する原動力になります。

尚、手回轆轤の場合一般に右回転(時計方向回転)で、蹴轆轤の場合には左回転(反時計方向)

で使用されています。

5) 絵唐津に付いて。

  李朝の絵付け陶器の影響で、我が国で最初に作られた絵付け陶器と言われています。

  最初は李朝風の絵付けでしたが、次第に我が国の絵柄(和風)が採用される様になります。

 ? 鉄絵のある唐津の陶器を「絵唐津」と呼びます。

  絵では無く、文字が描かれた物も「絵唐津」と呼び、鉄砂で刷毛塗りしただけの焼き物も

  「絵唐津」と呼ばれます。それ故「無地唐津」と呼ばれる焼き物とまったく同じ焼き物ですが、

  違いは絵の有無だけです。

 ? 「絵唐津」には、素地の違い、釉の違い、絵柄の違いや描き方の違い、焼成方法の違いなど

  多くの違いや様式が存在しますが、全て「絵唐津」になります。

 ? 絵の具として、含有岩鉄を磨り潰し水に溶いた物で、素焼きしない成形品に、絵筆などで、

   絵を描き、土灰釉や長石釉を掛け匣鉢(さや)を使わずに、登窯で焼成します。

   釉は透明又は半透明な為、光沢の絵が浮き出てきます。

   尚、初期唐津では、施釉後に鉄絵が描かれた物もあります。

 ? 土灰釉は透明度が高い為、模様ははっきり現れます。一方長石釉は多少白濁する為、絵が

   ぼやけたり、穏やかな感じになります。

  ・ 酸化焼成の場合:鉄絵は茶色を帯びた発色になり易く、強酸化の場合には、柿色になりす。

    釉肌も釉が黄ばむ為、素地の赤土の影響で枇杷(びわ)色に発色します。

  ・ 還元焼成の場合: 鉄絵の線は黒くなります。釉肌も青味を帯びるのが一般的です。

  但し、意図的に絵を茶色にしたり黒くしたする作業は行われなかった様です。即ち結果的に

  そう成ったと言う事の様です。

 ? 鉄絵の図柄(文様)や描写方法。

  この方法には、李朝系の模倣と見られる方法と、織部好みの美濃陶を模した物の二通りがあり

  ます。

  ?) 李朝系の図柄と描写方法。

    朝鮮から渡来した陶工達は、当時李朝で流行していた技法を持ち込みます。

    即ち、南朝鮮の窯場では、鶏竜山(けいりゅざん)で代表される刷毛目鉄絵が盛んに作ら

    れていました。 その文様や描写方法は、きちんとした構図や筆法は無く、好きな形を好き

    勝手に描くと言うすこぶる素朴な方法が取られていました。丸、三角、十字、点などの

    抽象的な物から、草花、蔓草(つるくさ)、樹木など身近な自然や、何を描いているのか

    不明な物まで、色々描かれています。

     注: 鶏竜山の土は黒っぽい為、鉄絵を描くには白化粧する必要が有ったとおもわれます 

       絵唐津に使われる土は、白っぽい土の為、白化粧の必要はありませんでした。

  ?) 織部風の絵唐津の図柄と描写方法。

   a) 美濃陶の織部や志野の焼き物に描かれた絵柄が、絵唐津に使われるます。

    瀟洒な構図と巧みな筆法で、橋、網干、松山、春草、菫(スミレ)、菖蒲(あやめ)、

    千鳥、干し柿などがテーマで、李朝風とは、全く異なるものでした。

   b) 器の形に合わせて、構図の取り方が工夫される様になります。

以下次回に続きます。

    

焼き物の着物(色彩)69 古唐津 6(絵唐津2)

$
0
0
5) 絵唐津に付いて。

 ? 絵付けされた作品。

  作品の種類は、代表的な壷や茶碗の他、大皿、水指、花生、向付、大鉢、片口、茶入、香炉、

  香合など多種多様です。中でも茶陶と関係深い、茶碗や向付、皿や鉢類に多く見られます。

  ?) 作品のほとんどが轆轤水挽法で作っています。後で述べる、四方(よほう)向付や、

    撫四方なぜよほう)、四方入隅(よほういれずみ)等の方形や沓形、編笠など歪んだ形の

    作品も轆轤挽き後に変形させ作られています。

    尚、絵唐津用の素地は、比較的白色の為、素地に直接絵付けしています。

  ?) 壷: 器形は提灯(ちょうちん)形と算盤(そりばん)玉形に大別されます。

    いずれも李朝で好んで作られていた形の壷です。

    a) 提灯形は、胴が横方向に丸く張り出した形です。

      やや縦長の物と、平らべったい形があります。

    b) 算盤玉形は、張り出した胴が角度を付けて、折れ曲がった形をしています。

      轆轤挽き時は緩いカーブであったものを、削り作業で稜を立てたものと思われます。

    c) 絵柄は、草文、唐草文、菖蒲(あやめ)文、木賊(とくさ)文、葦(あし)文、千鳥

      片車文、柿文などがあります。

    d) 壷の用途は、小さな物は葉茶葉入れと思われます。口径がやや広い壷は、水指として

      使用されていた様です。

    e) 著名な絵唐津壷の逸品には以下の物があります。

     ・ 絵唐津柿文壷: 出光美術館蔵。甕屋の谷窯。小型の為、葉茶壷と見なされています

       高さ 16.7cm、口径 9.4cm、胴径 17.9cm

      器表面いっぱいに、実が成った一本の柿の木と枝が描かれています。

      肩に三つ耳が付けられ、正面(柿の幹が描かれた方向)の耳には五個の擂座(るいざ)

      が付けられているのが稀です。注:擂座とは、太鼓の縁の鋲(びょう)の事です。

     ・ 絵唐津葦文壷: 出光美術館蔵。甕屋の谷窯の名品。

       高さ 16.1cm、口径 15.5〜16.6cm、胴径 22.9cm、高台径 10.7cm

       塩笥(しおげ)形の壷で、桧垣風に描かれた草むらの中に、一本の葦と花が

       描かれています。

     ・ 絵唐津蘆唐草文壷: 日本民芸館蔵。 典型的な算盤玉形の壷です。

       高さ 13.9cm、口径 15.0cm、底径 8.9cm

       元来、台所の味噌や醤油を入れる容器として使われていた物と思われます。

       還元焼成の為、釉肌はオリーブ色をしています。同寸で同様な文様の陶片が一之瀬

       高麗神窯から出土しています。

   ?) 茶碗類: 

     「一楽二萩三唐津」と言う言葉があります。茶道に使われる器に付いて述べた物です。

    a) 唐津焼は、織部の様な奇抜で個性の強い焼き物ではない為に、逆に「侘び茶」に対して

      最適な器になったと思われます。

    b) 著名な茶碗に付いて。

    ・ 絵唐津木賊(とくさ)文茶碗: 甕屋の谷窯。 田中丸コレクション蔵。

       高さ 9.0cm、口径 12.7cm、高台径 4.8cm

      絵唐津の名碗として、大変有名な茶碗です。背が高く見込みの深い茶碗で、口縁が

      やや外側に反っています。胴の両面に木賊(長さが異なる複数の縦線)の絵付けが

      あります。

    ・ 絵唐津菖蒲文茶碗: 田中丸コレクション蔵。

      高さ 9.3cm、口径 12.2cm、高台径 6.5cm

      絵唐津の筆頭に上げられる半筒茶碗です。茶碗の裏表に鉄砂で菖蒲文が描かれ、描き方

      に配慮された様子が見受けられます。失透性の長石釉が掛けられています。

      表面には細かい貫入が多数あります。

    ・ 絵唐津草文茶碗: 初期絵唐津の名碗です。

      高さ 8.2cm、口径 13.8cm、高台径 6.0cm

      絵付けの方法も天衣無縫で素朴な感じですし、釉掛も無頓着に施釉した為、釉が片側に

      大きく流れ落ちています。この無頓着さが唐津の良い処といえます。

    ・ 絵唐津山水文沓茶碗: 甕屋の谷窯

      高さ 8.2cm、口径 11.6〜17.9cm、高台径 5.7cm

      轆轤で水挽した碗を楕円形に歪ませ、腰に強い段差を設けた典型的な沓茶碗です。

      胴には、太い筆で判然としない山水風の絵柄と、黒い点々が付けられています。

    ?) 皿、鉢類に付いて。

以下次回に続きます。

焼き物の着物(色彩)70 古唐津 7(絵唐津3)

$
0
0
5) 絵唐津に付いて。

 ? 絵付けされた作品。(前回の続きです)

  ?) 皿類に付いて。

    壷や茶碗などは絵を描く面が湾曲し、しかも面積も狭いですが、皿は平面な面積も広い為

    描く絵も伸び伸びとしています。絵唐津は皿類の物が一番良く、絵柄も豊富の様に見えます

   ・ 絵唐津松文皿: 17世紀(江戸初期)。 出光美術館蔵。

     高さ 9.0cm、口径 36.2cm、底径 10.8cm。

     鉄分を含む肌理の細かい土で、制作は轆轤挽きです。皿の中央に鉄砂で黒い一本の松が

     描かれています。枝はまばらでその先端に、まとまった松葉が付いています。

     絵心のある専門の陶工が描いた可能性があります。

   ・ 絵唐津菖蒲文皿: 市ノ瀬高麗神窯出土。

     高さ 7.0cm、口径 29.0cm、底径 8.7cm。

     「石ハゼ」の含まれる鉄分のある小石混じりの土で、轆轤挽き制作です。

     長石釉が還元焼成の為、釉肌は青磁風になり、鉄絵は赤褐色に成っています。

     重ね焼きした為、見込み部と高台に四個づつの目跡があります。

   ・ 絵唐津枝垂柳(しだれやなぎ)文大皿: 甕屋の谷窯の傑作の一つ。梅沢記念館蔵。

     高さ 9.6cm、口径 38.7cm、高台径 11.0cm。

     口縁は幅広の平縁で、皿の端から端まで、6本の柳の小枝が垂れ流暢に描かれています。

   ・ 絵唐津沢瀉(おもだか)文四方皿:

     高さ 5.2cm、口径 17.5〜18.6cm、高台径 5.2cm。

     藤の絵皿として有名な皿です。但し、葉の形が藤と異なる為、上下を逆にして沢瀉と

     見る人もいます。元々数物であったと思われています。

     轆轤挽きした丸皿の四隅を指で摘み上げ、少し内側に抱える形の四方入隅(いりすみ)の

     形に仕立てた物です。尚、志野の絵皿にも沢瀉の大皿があり、これが本歌の可能性が

     大きいです。

   ?) 鉢、片口に付いて。

    ・ 絵唐津唐草文大鉢:

      高さ 14.9cm、口径 33.9cm、高台径 11.4cm。

      幅の狭い横長の外側に葡萄(ぶどう)唐草文が連続して描かれています。

      内側の口縁部に木賊文(とくさもん)が要所要所に描かれた鉢です。還元焼成の為、

      絵は黒く焼き上がっています。

    ・ 絵唐津草花文手付大鉢: 出光美術館蔵。

      高さ 14.3cm、口径 23.9〜26.0cm、高台径 10.6〜11.1cm。

      捻り土で把手が側面二箇所に付けられた珍しい形です。元々朝鮮にあった形と思われ

      ています。外側の側面に筆太で豪放に草花文が描かれています。

    ・ 絵唐津鳥文片口: 内田皿屋窯跡出土

      高さ 13.0cm、口径 21.1〜23.4cm、底径 8.6cm。

      真ん丸の形が焼成中に口の方に引っ張られて、楕円になったものです。

      鉄砂で胴に七羽の千鳥が、縦方向に飛んでいる姿が描かれた、稀な文様です。

   ?) その他の絵唐津の作品。

      退屈な話が長くなりますので、以下詳細は省略します。

    a) 水指: 絵唐津水草文矢筈(やはず)水指(岡山美術館蔵)。

          絵唐津瓢箪水指など多くの種類があります。

    b) 花生: 絵唐津耳付花生(出光美術館。逸翁美術館など)

    c) 向付: 四方向付、筒向付、蛤形向付など色々な形があり、それに合わせて絵付けが

          されています。

    d) 徳利、ぐい呑、茶入、香炉などに絵付けがされています。 

以下次回に続きます。

焼き物の着物(色彩)71 古唐津 8(黒、三島、二彩唐津、他)

$
0
0
唐津焼きの種類は、斑唐津、朝鮮唐津、絵唐津の他に幾つかの焼き物があります。

1) 黒唐津: 黒い釉肌の唐津焼を言います。この方法には二つ方法があります。

 ? 濃い飴釉の掛かった物: 釉に酸化鉄が含まれる為、酸化焔で焼成すると茶色〜黒色の釉肌に

   成ります。

 ? 灰黒色の釉肌になる物: 蛇蠍(じゃかつ)唐津と呼ぶ場合もあります。

  上記濃い飴釉を掛けた上に、長石釉を掛ける事により、茶色に成るのを防ぐ目的で使用します。

  その為、黒い肌の上に白っぽい釉が載っています。更に、長石釉が濃い場合には、鼠志野風に

  なります。その場合長石釉が縮れ粒状になり、「蛇のうろこ状態」になったものを、蛇蠍唐津と

  呼びます。 黒唐津茶碗。黒唐津茶碗 銘 あさぎ。黒唐津白線文茶碗などがあります。

2) 三島唐津、刷毛目唐津、粉引(こひき)唐津:

 ? 三島とは、赤黒土の表面を白化粧する事で表面を白くし、更にその上に、印花や花文、桧垣文

  などの印を捺し、透明な灰釉を掛ける装飾技法です。

  李朝前期の象嵌(ぞうがん)技法を取り入れたと言われています。

 ? 刷毛目唐津とは、白化粧土を刷毛塗りする事で、刷毛の通った痕が残り、模様となります。

   更に、白化粧土の上を釘や櫛などで引っ掻いて、地肌を浮き出し文様にする方法もあります。

 ? 粉引唐津: 白化粧土を「浸し漬け」や「流し掛け」で全体を塗り唐津釉を掛けた焼き物です

 ? 作品としては、三島唐津茶碗。三島唐津耳付水指などです。

3) 備前唐津: 赤土を叩き締めた上に、灰釉を薄く掛ける事により、錆びた色と歪んだ形が

   備前茶陶風に焼きあがった物です。 備前唐津平水指など。

4) 瀬戸唐津: 瀬戸焼きに似た唐津焼きの意味です。尚瀬戸とは、志野や絵瀬戸の類をいいます

   即ち、志野の百草(もぐさ)土の様な砂目のある白い土に、白い長石釉を掛けたもので、

   釉の縮れ具合が、あたかも志野風です。小堀遠州好みに作らせたと思われています。

 ? 深めの碗形をした本手瀬戸唐津と、皮鯨(かわくじら)手瀬戸唐津があります。

 ? 皮鯨とは、白い肌に黒い細い筋が皮鯨(鯨の表皮)に似ている事からの呼び名です。

 ? 作品として、瀬戸唐津茶碗 銘葉山。瀬戸唐津皮鯨(かわくじら)茶碗 滴翠美術館蔵。

   唐津皮鯨 ぐいのみ などがあります。   

5) 二彩唐津: 刷毛目地に鉄絵の茶色と、胆礬(タンパン=硫酸銅)の緑の二色で色付けされた

   焼き物です。赤土の素地を白化粧する事により、鉄絵の茶色と胆礬の緑がより鮮明に発色

   します。松の絵が描かれた大皿(直径28cm)が有名ですが、竹、梅、山水なども描かれて

   います。


◎ 古唐津焼の衰退。

 1) 16世紀末から江戸初期に掛けて、爆発的に発展していた唐津焼きでしたが、1597年に渡来

  した李参平によって有田川上流の泉山(いずみやま)で、磁器の材料の陶石を発見されます。

  1616年に彼ら一族は泉山に近い上白川天狗谷で白磁の生産を開始します。

  この事は古唐津を焼いていた窯場に大きな衝撃を与える事になります。

  (有田焼きに関しては、後日お話する予定です。)

 2) 白くて硬質で堅牢な磁器は、急速に普及する事になります。唐津の陶工達も有田へ移住

  する様になります。その結果、唐津以外の窯場でも陶器は見捨てられる様になります。

  有田が栄え、唐津は衰退の道を辿る事に成ります。

 3) 但し、唐津でも刷毛目や二彩唐津等の一部は生き残りますが、日用雑貨を焼く地方窯と

 後退して行きます。

以上で、古唐津の話を終わります。

次回より「上野と高取焼」に付いてお話します。

焼き物の着物(色彩)72 高取焼と上野焼1 

$
0
0
高取焼も上野(あがの)焼も共に福岡県の焼き物ですが、秀吉による朝鮮出兵の文禄、慶長の役後に

朝鮮よりの渡来人の手によって新たに興った窯です。

但し、唐津焼が大いに発展したのに対し、この両窯では大きな発展は見られませんでした。

その理由は、領主の御用窯として活動し、陶工の数も少なかった為とも言われています。

1) 高取焼。

  高取焼は、筑前博多五十二万石の領主の黒田藩の御用窯として始まります。

 ? 窯を任されたのは、八山(はさん、八蔵)と呼ばれる渡来人と言われています。

   その他に八山の妻の父である渡来人の井上新九郎も、開窯に加担した様です。

   慶長五年(1600年)黒田長政が筑前に入国した頃に窯が築かれます。

   築かれた場所は鷹取の古城山の山麓、即ち現在の永満寺宅間窯(一般に鷹取山の窯)と呼

   ばれる処と見なされています。

  ?) 上記の窯で、どの様な焼き物が作られていたかは、ほとんど不明で伝来品は皆無でした。

    この窯の操業が数年で終わった事と等から、試験的に作られた可能性もあります。

    近年、発掘調査などで、窯跡から壷、鉢、片口、皿類の破片が出土しますが、荒い土に

    藁灰による海鼠(なまこ)釉が掛けられた物と判明し、再発見される事になります。

  ?) 慶長19年黒田家支配の鷹取城が廃城になると、永満寺の窯も廃止になります。

    その後、寺の東北の内ヶ磯に新たに窯が築かれます。

    この窯で焼かれた作品は、従来唐津焼きと見なされてい物ですが、陶芸家の高鶴元氏

    (こうづるげん)の陶片収集により、内ヶ磯窯で焼成された事が判明します。

    ・ 高鶴元氏が収集した陶片には、片口、擂鉢、皿類など一般庶民が使う日用雑器の他、

      抹茶茶碗、茶入、水指などの茶陶の他、高級食器類も多く含まれています。

  ?) 特に後世に高名なと呼ばれる斑唐津茶碗は、全てこの窯で焼かれたと言っても過言では

    ないそうです。唐津の藤ノ川窯で焼かれた叩の朝鮮唐津と同様な作品も、この窯で焼成

    されていました。更に、藤ノ川窯よりも優れた作品も多く存在しています。

 ?  黒田長政の子忠之の代に、山田唐人谷の窯、豊前の釜の口窯が開かれ、寛永七年(1630年)

    藩の御焼物場(窯)が穂波郡の白旗山の北山麓に作られます。

    この窯から、小堀遠州好みの茶道具、即ち茶入、水指、食器類が多く作られる事になります

    但し、初期高取の焼き物が唐津風のものであったのに対し、腰の張った織部風の沓茶碗

    などが作られる様になります。

 ? 「高取歴代記録」によると、八蔵父子が京都伏見に派遣され、小堀遠州の好みを請けて茶器を

   制作した記述がありますので、何らかの影響があったと思われます。

   これらの作品を「遠州高取」と呼ぶ場合もあります。

  ?) 小堀遠州(1577〜1647年)は安土桃山〜江戸初期の大名(備中松山二代藩主)、茶人、

    建築家、作庭家であり、特に古田織部後の茶道界をリードした人物です。

  ?) 初期高取の荒い土から、細かい土を使い轆轤挽きした茶碗や茶入等の作品に「銹(さび)

    くすり」と呼ばれる銀茶色の鉄釉や、黄味を帯びた失透灰釉が掛けられた、遠州好みの

    「綺麗さび」の茶器をが制作されます。

 ? 歴代の黒田藩主は各地に積極的に御用窯を築きますが、7世紀後半を過ぎる頃から、形式的な

   作風になり、綺麗ではあるが、面白味の無い作品に成ったと言う見方もあります。

   尚、民需品も藩の専売品として焼かれていた様です。

以下次回(上野焼)に続きます。
  

焼き物の着物(色彩)73 高取焼と上野焼2 

$
0
0
上野(あがの)焼は、豊前(現在の福岡県)小倉に三十七万石の居城を構えた、細川藩の藩主細川

忠興(号は三斎)が1602年(慶長七年)以降に興された御用窯です。「三斎公のたのしみ窯」と

言われたそうです。

 注: 細川三斎(1563〜1646年)は、千利休の弟子で利休が秀吉の怒り受け、京から堺に

 下る際、古田織部と伴に伏見まで見送った事でも知られる茶人です。

1) 上野焼の開窯。

  尊楷(そんかい、上野喜蔵)なる渡来人が、細川氏の命により、現在の小倉市の中心部近くに、

  登窯を築いたと言われています。尚、現在でもはっきりした場所は特定できていません。

  この窯の存続期間は短期間で、慶長の末頃には田川郡赤池町上野に移動します。

  秀吉の朝鮮出兵の慶長の役の際、加藤清正に従い渡来した尊楷(そんかい)が、細川氏が小倉

  入りした後、細川氏に招かれたとの事です。

2) 古上野焼: 細川氏が肥後(熊本)に移る迄の約30年間に作られた焼き物を言います。

 ? 窯跡は皿山本窯、釜の口窯、岩谷窯が主要な窯で、場所は現在の上野町の東北にある禅寺の

  興国寺の北側の山麓にあります。尊楷の三男の孫がこの地に留まり、皿山本窯は現在でも操業が

  続いていますが、他の二窯は短期間で終わっています。(寛永九年頃に廃窯されます)

  尚、釜の口窯が尊楷によって最初に築かれた窯とされています。

 ? 釜の口窯は昭和30年に、日本陶磁器協会によって発掘調査が行えあれています。

   窯は全長41m、半分地上連房式登窯で、胴木間と窯尻を含めて17室の窯である事が確認され

   ます。(上野古窯調査報告書:昭和30年、日本陶磁器協会)

   この規模は古唐津系の窯と、同程度と考えらています。

   出土品から、多くは一般的な片口、擂鉢、皿が多いですが、抹茶茶碗や茶入、水指、向付など

   の茶陶が焼かれていました。

 ? 古上野焼の特徴。

  ?) 高取焼の内ヶ磯窯の出土品が、古田織部好みの歪みの強い作為のある作品が多いです。

    しかし、古上野では利休の茶風を重んじる細川三斎の好みの影響で、無作為な作品が多い

    です。中でも、茶人の間で重宝された割山椒向付が、この窯の特徴になっています。

  ?) 成形は轆轤、叩き、型造り等の方法で、生地が薄く軽量に出来ています。

    釉は藁灰釉、灰釉、鉄釉が使用され、鉄絵を施した物、釉による片身分(かたみわけ)

    など、基本的には唐津焼と同じです。

  ?) 釜の口窯の東方の谷間に岩谷高麗窯と呼ばれた窯がありました。この窯も一般的な碗や

    皿類など、多の陶片が出土しますが、高取の内ヶ磯窯と極めて似た作品が作られています。

    これは、1624年に内ヶ磯窯が廃止になり、一部陶工がこれらの窯場に移住した為と思われ

    ます。

  ?) 尊楷、長男忠兵衛、三男藤四郎は細川氏と伴に、肥後に移転し八代焼を開いたと言われて

   います。

 ? 小笠原時代の上野。

   寛永二年(1625年)に上記赤池町上野皿山に上野皿山本窯が築かれます。

  ?) 細川氏が肥後(熊本)に移った後、新藩主に小笠原の御用窯として栄えます。

    但し、小笠原時代の作品は、古上野の様な風格のある作品は作らなくなります。

  ?) 小笠原氏の「御用窯」は、紆余曲折を得て二百数十年続く事になります。

    窯を指導したのは、尊楷の三男の孫の孫左衛門や、その親類の渡久左衛門達ですが、

    その後、十時家、渡家、吉田家の三氏が窯主となり、共同経営が行なわれています。

    この窯では、独特な紫蘇(しそ)釉、鮫膚(さめはだ)釉や、「上野緑釉」と言う銅を呈色

    剤にする緑釉が作られ、鉄釉、灰釉、上野銅釉を掛け合わせて「上野三彩」が作られます。

以下次回「薩摩焼」に続きます。

焼き物の着物(色彩)74 古薩摩 1

$
0
0
薩摩焼とは、九州の薩摩島津家藩主領内の、広い範囲で焼成された陶磁器の総称です。

但し、藩内のかなり広い範囲に、数多くの窯が築かれ、その結果焼かれた作品は、黒物(くろもの)

や白磁、染付、色絵、錦手、三彩など幅広い分野の焼き物が作れています。

これは、渡来した陶工の人数が多い事と、更に朝鮮の各地の窯場から連れて来られた為、各自独自の

方法で作品を作った事が原因とされ、それが代々続いた為です。この様な特徴は薩摩焼に限って

見受けられる光景との事です。

1) 古薩摩焼の起源。

 ? 慶長三年(1658年)秀吉による朝鮮出兵の終了と共に、薩摩藩主、島津義弘が帰国します。

  その際、男女七十余名の朝鮮の陶工達を連れてきます。茶人でもある義弘氏は千利休の弟子で

  利休に付いて茶道を学ぶ内に、自分自身の茶道具を作らせたいと言う欲望と、藩の殖産振興を

  願っていた為に朝鮮の陶工を連れて来たのでないかと思われています。

   注: 島津義弘(しまづ よしひろ:1535 〜 1619年)島津家17代当主。

     武人(軍神)、茶人、医学、学問など当時の一流文化人です。関が原で西軍(負け組み)

     に付くも、領地はそのまま継ぐ事が出来た稀な例で、彼の人望の為と言われています。

 ? 義弘が出兵した場所は、朝鮮の慶尚南道方面で、当時の高麗茶碗の本場と目されていた場所

  でした。又、その近辺には、三島系の著名な窯場も点在している場所で、陶工を集めるのに

  最適な地でも有りました。その中でも金海(和名:星山仲治)なる人物が中心的な役割を担う

  事に成ります。

 ? 義弘の命により、金海が本格的な窯を築くのは、関が原の戦い後の慶長六年(1601年)で義弘

  の居城の近くの蛤良郡帖左村に「御用窯」の宇都窯を築きます。これが薩摩焼の起源になります

  この窯は昭和10年に小山富士夫氏らによって発見、発掘調査が行われていますが、規模の小さな

  窯で、出土品も施釉陶片19点、破片約120片と窯道具(トチン、ウマノツメ)数十点のみで

  使用頻度も数回と、極少なかった様です。

 ? 金海は日本の茶道に詳しくなく、瀬戸系の茶碗や茶入、更には織部好みの作品には全く

  知識が無い為、義弘は慶長七年彼を瀬戸、美濃方面へ陶法の技術修行に向かわせます。

  修行期間は、五年間と「星山家系譜」には記述されているとの事です。

 ? 修行終了後に帰郷した金海は、御里窯を築きます。御里とは、城内の菜園場を指します。

  この窯も、上記小山富士夫氏らによって発掘調査され、更にその後の昭和17年に他の人により

  発掘調査が続けられます。

  ?) 窯の構造は朝鮮系の半円筒形単室傾斜窯と推定されます。この窯は義弘に死後跡を継いだ

   島津家久が鹿児島城山に移る約12年間使用されていた様です。

  ?) 窯址から出土した陶片は、鉄分を含む長石質の半磁器土で、褐色又は黒飴釉が掛けられて

   いました。酸化焼成では淡褐色に還元焼成では暗灰色に焼き上がっています。

  ?) 作品の種類は、茶碗と茶入が多く、鉢や甕などの日用品が混じっています。

   尚、今日古帖佐として認められた作品は、ほとんどが茶碗と茶入に限られています。

  ?) 伝世品としての古薩摩の茶入の、「文殊茶入:銘 望月」(東京国立博物館蔵)、

   「皆口茶入:銘 後藤」(根津美術館蔵)、「鶴首茶入:銘 宇治山」(根津美術館蔵)、

   「肩衝茶入:銘 さいのほこ」(田中丸コレクション蔵)などは、土、作行き、釉などが、

   窯址からの陶片と同様の事から、この御里窯で焼かれた物と推察されています。

 ? 火計手(ひばかりて)の茶碗: 火計手とは土と釉と、作品の作者が朝鮮のもので、焼きのみ

   が日本で行われたと言う意味です。

   即ち朝鮮の陶工の金海達は、郷里の朝鮮より白土と釉を持ち込み、茶碗を制作したと伝え

   られています。尚、初期の頃は薩摩では白土が未だ発見されていませんでした。

   やがて、指宿郡成川村で白土が発見され、白薩摩や染付、色絵の発展に繋がります。

  ?) 火計手の伝世品は約十点ほど確認されています。

    轆轤挽された薄手の作りで、無色透明の釉が掛けられています。

   ・ 薩摩 白釉瓜形茶碗。 ・ 薩摩 白釉蓮葉茶碗:東京国立博物館蔵  

   ・ 薩摩 塩笥(しおげ)形茶碗:梅沢記念館蔵などです。

以下次回に続きます。

焼き物の着物(色彩)75 古薩摩 2

$
0
0
古薩摩はには、黒薩摩、白薩摩、三島手、染付、色絵など色々な焼き物があります。

薩摩焼の系譜として「竪野系」、「龍門司系」、「苗代川系」、「 西餅田系」、「平佐系」と大別され、

作られていた作品に若干の差があります。

2) 古薩摩の作品。

 ? 竪野野窯

  細川義弘の跡を継いだ家久は、居城を鹿児島に移します。渡来人の金海らも藩主に従い、城に

  近い、竪野冷水に窯を開きます(1620年頃)。しかし金海は翌年に亡くなり、彼の子の金和

  (二代星山仲冶)が中心に成って続けられます。

  ?) この窯は、当初は家久の茶碗や茶入を焼く、小さな「御用窯」でした。

    これらの茶碗類は遠州好みと言われる作品です。特に瓢形茶入の「甫十手(ほじゅって)」

    と呼ばれる物は、小堀遠州が薩摩侯に依頼して10個ほど作らせたと言われています。

    又、黒釉の茶碗には、施釉を二重三重に施したと思われる「銘野々宮」があります。

  ?) その後窯が作り替えられています。昭和五十三年の発掘調査で、次の事が判明します。

    連房式登窯で平面全長14.48m、第一から第七焼室がありました。

  ?) 産業振興に力を入れる様に成った島津家久は、新しい技術を導入する為、金和を肥前に

    派遣し、白磁、染付、青磁、瑠璃(るり)等の制作技法や、釉の製法を学ばせます。

    指宿郡成川で発見された白土が使われた様です。

  ?) 色絵薩摩の創出

    薩摩焼と言えば、細かい貫入(ひび割れ)の入った黄色の肌に、極彩色の色絵が付けられた

    焼き物です。この焼き物は、薩摩焼に於いて画期的な技術となります。この色絵を焼いた

    最初の窯が、竪野窯と言われ薩摩焼の本流とも言えます。

   a) 三代島津光久が有村碗右衛門を、京都御室に京焼の錦手を学ばせる為、1648年に赴任

    させます。

   b) しかし、碗右衛門の色絵は失敗の様で、伝世品は一つも残っていまいとの事です。

   c) 本格的に色絵が作れる様になったのは、1793年に藩主斉宣の命を受けた、竪野窯の金貞

    (星野仲兵衛)と龍門司窯の川原芳工が、当時有名であった京都の錦光山宗兵衛の元で

    技法を学び、翌年帰国します。

   d) その後も数名の陶工が、京都の仁阿弥道八の元で金襴手の技法を学び帰り、薩摩の色絵は

    急速に発展して行きます。

   e) 上記の理由から、細かい貫入の胎土に色絵を付ける方法は、京焼風に成るのは当然です。

    それ故、京焼と薩摩焼の判別に苦労する事になります。 

 ?  龍門司窯

  龍門司窯は、苗代川と共に現在も操業が続けられている窯です。

  ?) 所在地は鹿児島空港の近くの加治木市小山田茶碗屋で、元禄年間に創業したと思われて

   います。渡来陶工の芳珍の孫の山元碗右衛門が、窯主として操業していましたが、蛤良郡

   福山の名家の川原藤兵衛門重治が参加し、更に彼の次男の種時(後の名工 芳工)の頃から

   隆盛を極める様になります。尚、川原家の家系には、芳寿、芳平、芳林、芳などの名工が

   家業を支えます。

  ?) 三島手象嵌技法を、龍門司窯の特製品とします。

   上記芳工は竪野窯での修業時に覚えた、三島手象嵌を使い民芸風の焼き物を作り続きます。

   龍門司の土は鉄分の多い赤土が多い為、白化粧土を施す必要があった為とも言われています。

  ?) 白化粧土の応用。

   a) 龍門司三彩: 器全体に白化粧を施した後、酸化銅の緑、酸化鉄による茶色(または黒)

    で、絵付けをした焼き物です。多くは大鉢の外側や、「カラカラ」と呼ばれる酒器に描かれて

    います。注:カラカラは、主に沖縄地方で使われる、焼酎(泡盛)を入れる一種の徳利です

    尚、龍門司窯では、茶道具類は一切作れていない様です。釉は藁灰釉を利用しています。

   b) ビタ刷毛の技法

    現川窯(うつかわ、諫早市)などで行われている、白化粧土を刷毛に取り、上下左右に

    刷毛を動かせて、刷毛目を付ける方法です。龍門司窯でも行われています。

  ?) 鼈甲(べっこう)手の作品。

    全体に黒っぽい飴釉を掛けた後、藁灰釉を無作為に振りかけ、二重に掛かった部分は、

    飴釉が薄くなり色が淡くなります。この模様が鼈甲に見えます。更に還元焼成すると、

    藁灰釉は青白く失透します。

以下次回に続きます。   

焼き物の着物(色彩)76 古薩摩 3

$
0
0
2) 古薩摩の作品。

 ? 苗代川(なえしろがわ)窯

   現在の薩摩焼で一番著名な窯は、苗代川窯です。沈寿官吏(ちんじゅかん)氏を始め、多くの

   窯が現在でも活動しています。龍門司が共同組合的な経営なのに対し、苗代川では個人経営が

   行われている事もあって、人気があると思われています。又他の窯と違い、「御用窯」的

   要素は無く、独自の形態を守り続けています。

  ?) 苗代川の開窯。

   a) 慶長四年(1599年)に「朴平意」達多くの渡来人によって、串木野の嶋平に窯が築かれ

    ます。当時は島津義弘の援助も少なく、苦労しますが、四年後に窯の南方の苗代川に窯を

    築きます。この頃から島津藩の庇護を得る様になります。

    尚、苗代川窯以前には、黒飴釉の雑器を少量作っていた程度です。

   b) 苗代川では元屋敷窯が最初に築かれます。

    その後、堂平、五本松、新堂平と場所を点々と変えますが、江戸後期に成ると、更に場所が

    広がり窯数も増えます。

  ?) 苗代川窯の作品。

    主に、一般庶民を対象にした、生活用の雑器を生産し続けています。

   a) 土は粗めで鉄分が多く、焼き上がりが赤黒色になります。釉は鉄釉で鉄の含有量により、

    漆黒〜灰黒と変化します。良質の酸化鉄は串木野金山に近い鍋山で産出します。

    この酸化鉄に土灰を合わせて釉にします、この釉を俗に鍋山黒とも言います。

    又、これらの作品を「苗代川の黒物」と呼ぶ事もあります。

   b) 作品は、飯茶碗、徳利、擂鉢、甕(かめ)などが多く、小物は轆轤による薄造りで、

     袋物と呼ばれる大きな作品や甕などは、叩き造りです。

   c) 苗代川の染付け。 1764年頃より、堂平窯に於いて白物の平鉢や土瓶などが作られ始め

     ます。天草陶石を使った本格的な染付けの先駆的な焼き物です。

    ・ 1846年に苗代川に南京皿山窯が築かれて、染付け専用の窯として発展します。

 ? 西餅田窯(古帖左)。

  ?) 帖左の宇都の近くの西餅田に窯が築かれたのは、寛文年間(1660〜1673年)と言われて

    います。当地の修行者小野元立氏が、肥前の陶工の北村伝右衛門に築かせたと言われて

    います。

  ?) この窯の主な作品には、鉄釉系の黒飴、黄飴、蛇蠍釉(だかつゆ=黒釉に藁白釉を二重

   掛けした物)が掛けられています。 一般の日常雑器と、茶道具や花生など高級な物に二分

   されます。

   a) 日常雑器類は、窯跡の発掘調査で多量に出土し、大量に作られていた事が推定されますが

    今日ほとんど残っていません。

   b) 茶道具や花生は、伝世品として残されています。

    ・ 茶碗のほとんどは、釉が滴状に縮れを起こす蛇蝎(だかつ)釉です。黒釉だけの物と

     黒釉の上に白海鼠(なまこ)釉を掛けた白蛇蝎があります。

    ・ 花生で多い形は、竹筒形で中央上部と最下部に節を二つ持ち、マット系の黒釉が掛け

     られています。

 ? 平佐窯。染付や、色絵の作品(磁器)を焼いた窯です。

   川内(せんだい)市の東北に位置する平佐窯は、天明六年(1786年)に有田の陶工伊地知

   団右衛門を招いて創業したと伝えられています。尚、平佐窯は当時北野窯と呼ばれています。

   原料は船で運んだ天草陶石が使われています。

  ?) 平佐窯の名声が一段と上昇したのは、鼈甲(べっこう)三彩手が作られていた為です。

   茶、黒、紫、青、緑、黄色のラスター釉を使う物で、長崎にいたフランス人の技師を招いて

   慶応年間(1865〜1867年)に始めらたと言われています。

  ?) 唐三彩が低温焼成なのに対し、高火度焼成した白磁に、低火度の鉛釉を載せ焼成した

   物ですので、丈夫な作品になります。

  ?) ヨーロッパにも多く輸出されていたとの事です。

 尚、磁器の色絵に付いては、後日お話する予定です。

次回萩焼に続きます。
   

焼き物の着物(色彩)77 古萩焼 1

$
0
0
江戸時代の茶陶で最も著名な焼き物は、楽焼と萩焼と言われています。

但し、萩茶碗の名声が高まるのは、江戸中期以降と見なされています。江戸初期の頃は「萩焼」の

名前は無く、上野焼や高取焼の方が茶会記に多く登場していました。

江戸中期から後期に掛けて、千家流で大いに賞賛され用いられる様になると「一楽二萩三唐津」と

言われる程になります。特に萩茶碗が主で他の作品の伝世品は少ない様です。

1) 萩焼の開窯。

  朝鮮の渡来人の陶工の李勺光(りしゃこう=シャムカン)により、毛利藩の「御用窯」として

  スタートします。 時は毛利藩が、1604年に長門と周防の二国の領主に縮小された以降と見な

  されています。

   注: 李勺光は秀吉の朝鮮出兵の文禄の役(1592年)の祭、秀吉の命令で大阪に連行され

    その後、毛利輝元に預けられます。

  ? 窯の場所は萩城下の松本中之倉で、「御細工人」として召抱えられます。

   その後、渡来した弟の李敬(りけい)や数名の陶工も参加します。

    注: 李敬は坂本助八と名乗り、後に「坂」と改名し「初代坂高麗左衛門」となり、松本

     萩の棟梁になります。現在の坂家に繋がる家柄です。

   李勺光の子は、山村新兵衛光政と名乗り、松本中之倉の御用窯を統括しますが、故あって

   殺害され、その子(勺光の孫)が長門深川湯元の三之瀬(そうのせ)に窯を築きます。

   これが深川萩の始まりです。尚、この窯の弟子達の中から、「坂田泥華」「坂蔵新兵衛」

   「田原陶兵衛」「新庄寒山」などが輩出し、各々窯が築かれます。これらの窯は十数代に

   渡り、代々継承され現在に至っています。

  ? 初代三輪休雪が、「松本椿窯」を開業します。

    大和の三輪出身(異説あり)の三輪十蔵が、寛文三年(1663年)に毛利藩に「焼物師」

    として召抱えられます。十蔵は後に休雪と称される様になります。現在三輪家は萩焼きの

    代表的な窯元に成っています。

2) 萩古窯址の発掘調査。

   代々の坂高麗左衛門が焼成した萩市椿中之倉に、数基の古窯があります。その中でも最も

   初期の窯と思われる一号窯と二号窯の発掘調査が、1976〜77年に行われています。

  ? 一号窯は全長28mの朝鮮系の12連(袋)の連房式登窯です。1650年まで使われていた事が

    判明されます。物原(ものはら:焼き損じた物を捨てるごみ捨て場)はすでに破壊され

    どの様な作品が焼かれていたかは、はっきりしません。但し窯内や窯横から多数の陶片が

    採取できましたが、日常食器類が多く、茶碗などの茶陶はほとんど見つける事は出来ません

    でしたが、轆轤挽された作品も多くあります。

   ? 二号窯は一号窯に続く窯で、寛文年間(1661〜1673年)に活況を呈した窯で、伝世品と

    同様な茶碗の破片が見つかっています。但し、この窯からは井戸風の茶碗は発見されて

    いません。釉は白釉や青磁風の物が多く見受けられます。

3) 古萩焼の特徴。

  ? 土は周防国吉敷郡大道村(現、防府市)から産出する「大道土」が主に使われています。

   この土に地元で採れる土を適度にブレンドしたと思われます。    

   窯場毎に又作品毎に、土を調合していた様です。例えば、坂高麗左衛門家に伝わる記録には

    「あさぎ土」「濃茶土」「高麗茶碗井戸の土」「びわ色の土」「三島手土」「俵手土」

    等の記載があります。

  ? 釉も「濃茶くすり」「あさぎくすり合せ」「わらはい(藁灰)合せ」「茶入薬」「黒楽」

    の記載がみられます。長石に土灰を混ぜた釉、藁灰を混ぜた釉が基本で、素地の違いや

    釉の濃淡、焼成方法によって、釉調も大きく変化し、使用しているうちに色調も変化する

    のも萩焼の特徴です。

  ? 茶碗の種類。

 以下次回に続きます。

焼き物の着物(色彩)73 古萩焼 2

$
0
0
3) 古萩焼の特徴。

 ? 茶碗の種類。

  ?)古萩焼の茶碗では、初期には形や装飾方法など、朝鮮の高麗茶碗風の焼き物を作ってい

   ました。 即ち、高台などに特徴が現れています。

   a) 竹節高台: 井戸風や熊川(こもがい)、雨漏茶碗に見られる高台です。

     注:竹節高台とは、高台の外側が竹の節状になった物です。

   b) 割高台: 筆洗、呉器(ごき)茶碗は、朝鮮系の形状で、高台は1〜4箇所に切り込みを

    入れた割り高台が多いです。伝世品の萩茶碗には、高台を切込んだ物が多いです。

   c) 三島象嵌の茶碗: 素地に箆(へら)や剣先又は捺印による模様を彫りこみ、白泥を

     流しかけたり、埋め込んだりした後、表面の白土を拭き取る(又は削り取る)技法で

     朝鮮独特の装飾方法です。特に俵手と呼ぶ茶碗は、米俵を長手方向に二分した形で俵の

     絵が表現すされ、彫り込まいます。

  ?) 和物の茶碗。 初期の朝鮮風の作品から、次第に織部風や遠州好みを取り入れた茶碗を

     作る様になります。

 ? 萩茶碗の特色。

  ?) 茶碗として、茶を喫む際、手取りの良さが上げられます。

  ?) 比較的低い温度で焼かれた為、焼締度が弱く手に持つと暖かい触感が得られます。

    その為、「萩の七化(ななばけ)」と呼ばれる、貫入から茶が浸透し使う程に、釉の色が

    変化し、侘びた風情を醸し出します。

  ?) 轆轤挽きは力強く、高台削りも「ざんぐり」とした土味が魅力です。

  ?) 茶の湯の「侘び寂び」にマッチした茶碗で、鉄絵が施された絵萩は少ないです。

    単調さを補う為、箆目や削目(そぎめ)、三島手や釉の色違い等によって変化を持たせて

    います。

4) 代表的な萩茶碗。

  ? 萩茶碗 銘白雨: 初期萩焼の代表的な茶碗です。

     高さ 7.9cm、 口径 14.9cm、 高台径 5.8cm

    鉄分の多い素地に白化粧を施し、長石釉を掛けた物で全面に貫入が有り、腰部と口縁部に

    雨漏りが認められます。

  ? 萩茶碗 銘大名: 薄手の井戸写しの茶碗です。 根津美術館蔵。

     高さ 8.2cm、 口径 14.1cm、 高台径 4.8cm

    箱書きに松平不昧公による「大名」の文字があります。

  ? 萩筆洗形桜高台茶碗: 織部風萩茶碗の代表的な焼き物です。藤田美術館蔵。

     高さ 7.8cm、 口径 12.5cm

  ? 萩割高台茶碗 銘武蔵野: 不審庵蔵

     高さ 8.5cm、 口径 11.8〜13.1cm、 高台径 6.8cm

    三ツ割高台の半筒茶碗で、赤味を帯びた枇杷釉が掛けられています。

  ? 萩熊川写茶碗 銘ふくら雀: 熊川(こもがい)風萩茶碗の代表的な物です。

     高さ 9.1cm、 口径 13.7cm、 高台径 5.9cm

    大道土を使い手取り感のある物で、端反、胴張、竹節高台、兜巾(ときん)、縮緬皺など

    典型的な熊川茶碗の特徴を備えています。

5) その他の作品。

  萩焼きは茶碗が代表的な焼き物ですが、その他に、茶入、香合、徳利、水指、鉢類も作られて

  います。著名な焼き物として以下の物があります。

  ? 透彫木瓜形鉢: 

     高さ 10.5cm、 口径 24.3〜25.3cm、 底径 10.2cm

    丸や三角、四角、七曜紋などが鉢の側面全体に透彫されています。

    轆轤挽きで、藁灰釉の白釉(黄白釉)が全体にたっぷり掛かっています。

  ? 俵形鉢: 熊谷美術館蔵

     高さ 10.7cm、 口径 22.0cm、 

    筒形に轆轤挽きした作品を長手方向に二分した本体に。長方形の高台を付けたものです。

    胴体中央部に、白土で花文の象嵌が施され、鉄分の多い土に藁灰釉が薄く掛けられ、青味を

    帯びた白い釉が流れ落ちています。


上野、高取、薩摩、萩と述べて来ましたが、これらはいずれも各藩の「御用窯」としてスタートし

各藩の厚い庇護の下、発展しますが、明治時代の廃藩置県により、その庇護が無くなり一部を除いて

衰退して行きます。これらの窯が再び活況を呈するのは、大正、昭和に入ってからになります。
   

焼き物の着物(色彩)79 染付1 (景徳鎮1)

$
0
0
「染付」とは、白磁の素地にコバルトを原料にした「呉須(ごす)」と呼ばれる青又は紺色の顔料で

文様を描き(下絵付)透明釉を掛けて高温(1300℃程度)で焼き上げた彩画磁器の事で、中国では

青花(せいか)とも呼ばれています。但し「染付」は我が国の呼び名で、韓国では「青華白磁」、

英語では「ブルー アンド ホワイト」と言います。

尚、鉄絵の技法は青花の出現より、かなり以前から行われていました。

1) 白磁の誕生。

  完全な白磁が生産できるようになったのは、唐代末か五代の頃とされています。

 ? 唐代末の9世紀には、中国各地で陶磁器の生産が盛んになります。

   焼き物の種類も、青磁、白磁、黒釉磁、釉下彩(鉄絵)磁器などが多く、日本の他、朝鮮、

   東南アジア、南アジア、中近東などに輸出されていました。

   磁器は長らく東洋の焼き物で、ほとんどが中国と朝鮮で生産され、限られたものでした。

 ? 特に河北省の定窯と景徳鎮が代表的な白磁の生産地になっていました。

  定窯と景徳鎮の白磁には以下の違いがあります。

  ?) 景徳鎮の白磁は定窯の白磁に対し、少し青味を帯びていますので、青白磁と呼ばれる事も

    あります。10世紀の宋代に、高嶺山(カオリン)で上質の磁石が採掘され、使われる

    様になり、より上質の白磁が作られる様になります。

  ?) 燃料の違いやによって、表情に違いがあります。

    定窯では、石炭を使っていた為、硬質な感じのする白磁です。

    景徳鎮の白磁は、薪(まき)を使用している為、柔らかく瑞々しさが感じれます。

    又、定窯が官窯であるのに対し、景徳鎮が民窯であった事も関係しているかも知れません。

  ? 景徳鎮の青白磁の名声は高まり、海外に輸出される様になります。

    モンゴル帝国や、中近東、エジプトまで大量に輸出ていました。

2) 青花の誕生。

  青花磁器が、何時から何処で作られていたのかは、しっかりした定説はありません。

 ? 但し、中国の元王朝(1271〜1368年)の末期に景徳鎮(けいとくちん)で本格的に

  生産されたものとされています。

  中国江西省の景徳鎮窯で制作された事は、伝世品や出土品及び数々の紀年資料などから、確認

  されています。注:景徳鎮は、磁都と呼ばれ現在でも多くの焼き物を作り続けています。

  江西省北東部にあり、長江の支流昌江に臨む窯場です。北宋の景徳年間(1004〜1007年)に、

  ここに鎮が置かれた事から景徳鎮と呼ばれています。尚、鎮とは、中国の末端の郡程度の行政

  単位です。

 ? 白い磁胎に呉須(コバルト含有) で絵を描く製品は、次第に宮廷や官僚の人気を博す様になり

  明時代には、青磁に代わって磁器の主流となります。

  尚、コバルトが中国産か、中東産かなど何処で産出したかは、現在でも不明との事です。

 ? コバルトで絵を描く方法は、中近東で先に行われ、中国との交易で、中国に影響を与え、

  発展した物と思われています。白地に青で絵付けされた焼き物は、中近東で作られていました。

  但し低火度の為と、たっぷりコバルトを掛けた為、発色が良くないそうです。

  一方中国では高火度で焼成する為、コバルトが熔けて美しく発色しています。

 ? 景徳鎮に先行する青花

  ?)1974年から、江蘇省揚洲(ようしゅう)の唐代(9世紀頃)遺跡が発掘調査されます。

   発掘場所は、唐代の揚洲の中心部の揚洲唐城で、出土品は多種多様な生活遺物でした。

   陶磁器も多く含まれ、越州窯青磁、磁洲窯の陶器、景徳鎮の白磁などの他、唐三彩、

   イスラーム産の青釉陶器など、当時中国で使われていた焼き物が含まれていました。

   この中に白磁に青の絵の具で、幾何学文、草花文、宝相華(ほうそうげ)文を塗った皿や碗、

   水注、枕などの破片が発見されます。

  ?) 1996年この出土品を、北京の考古学研究所と揚洲博物館で再調査します。

   上記青い絵の具を塗った物は、素地に白化粧を施し絵付けしたもので、本物の白磁では無い

   事が判明します。

 ? 景徳鎮の青花磁器の出現。

  ?) 景徳鎮には広い範囲で幾つかの窯が存在していました。

    元代の青花を焼成した古窯址として、湖田窯、落馬橋、珠山窯があります。

    a) 湖田窯は12世紀に白磁が、14世紀に青花磁器が生産されていたと見られます。

      作品は盤、馬上杯、青花磁器の梅瓶(メイビン)、雲竜文壷、牡丹鉢などがあります。

    b) 落馬橋窯では、青花孔雀文壷、青花魚藻文壷などがありますが、類似の物が大英博物館

      や、大阪市立東洋陶磁美術館に収蔵されています。

      上記二つの窯では、中近東向けの輸出品と、明代の宮廷磁器を製作してうた様です。

    c) 珠山窯では五爪(ごそう)の龍の文様が描かれた青花龍文共蓋が発掘されています。

      五爪は皇帝にのみ許された文様である事から、官窯風の磁器が作られています。

      又、イスラムの影響を受けたと思われる、孔雀緑地青花龍文盒が発掘されています。

  ?) 青花磁器の発展は、イスラーム世界との交易の影響が大きいです。

   元青花磁器は中国国内よりも、中東(イスラーム圏)で多くの遺品が残されています。

   これは、注文品として、船(又は陸路)で輸出されていた事が解かります。

 ? 元の青花磁器の器種と文様。

以下次回に続きます。

 

焼き物の着物(色彩)80 染付2 (景徳鎮2)

$
0
0
2) 青花の誕生。

 ? 元の青花磁器の器種と文様。

  元の時代の青花磁器の種類は、盤(皿類)、鉢、壷、偏壷、梅瓶、瓢形瓶、玉壷春瓶(ぎょくこ

   しゅんへい)、その他、酒器、文房具、室内装飾品の器などがあります。

  ?) 中国国内で出土する元時代の盤の大きさは、口径が20cm前後のものが多いです。

    しかし、イスラム世界での伝世品する同時代の青花磁器の大きさは40〜60cmと大型の

    物が多いです。イスラムの青花磁器は大きさを指定した注文品と見なされています。

    即ち、40cm、45cm、50cm以上の三段階に規格化されていた様です。

  ?) 元時代の青花の文様は、ある規則性を持って構成されています。

    即ち、口縁に波濤文や菱文を、内縁に牡丹唐草文や蓮唐草文などを帯状に巡せ、見込み部

    には、八宝文、蓮池水禽文、魚藻文、龍雲文、麒麟文などが描かれているものが多いです。

  ?) 中国の陶磁器への絵付けの特徴は、模様を作品全体に隙間無く描き込んでいる事です。

  ?) 元時代の青花は力強い筆使いから、明代に入ると、青花磁器の意匠は、優美で洗練された

    ものへと変化し、永楽年間(1403〜1424年)、続く宣徳年間(1426〜35年)で頂点を極める。

  ?) 元青壷の種類は多く、広口壷(酒会壷)、獣環壷、扁壷(へんこ)、面取壷などと多彩

    です。

   a) 文様は白磁に直接筆で描くのが一般的ですが、文様の輪郭を深く線彫を施し、その内側に

    コバルトで文様を描く技法が取られる場合もあります。

    元々、青白磁に直接片切法で絵柄を彫る方法は、青花が発明される以前から存在していた

    方法で、その技法の応用です。

   b) 獣環壷は、肩に獅子頭形や龍形の耳や銅環が付いた壷で、中近東でよく見られる形です。

    尚、沖縄の読谷村(よみたんそん)からも、出土しているとの事です。 

   c) 梅瓶とは、口が細く胴が円筒形をし、裾がすぼまった形ので、景徳鎮では北宋後期から

    作られています。元代の青磁や青白磁、青花等で多く作られています。

   d) 玉壷春瓶は中国国内と東南アジアに多く見られる形です。(中近東では少ない)

    辣韮(ラッキョ)形をした細頸瓶です。元の青花の中でも最も多く出土しています

 ? 中国以外の青花磁器の収集地(コレクション)。

  17世紀に入ってオランダ東インド会社による東方貿易が盛んになります。

  各国の王侯貴族は、中国から輸入された青花磁器、続いて日本の古伊万里、柿右衛門様式などの

  東洋趣味が宮廷社会のステイタスとなり、蒐集熱が発生します。

  ?) サントス宮殿: ポルトガルの首都リスボンにある旧宮殿で、現在は在ポルトガル・

    フランス大使公邸になっています。

   a) 「磁器の間」と呼ばれる小さな部屋の天井部は、青花磁器で埋め尽くされています。

    高さ7.5mの天井は、中央を頂点とする二等辺三角形が四面の構造で、その四面全体に青花

    磁器が取り付けられています。大小様々の大きさで、その数は全部で260枚あります。

   b) 青花磁器は全て景徳鎮で作られた事が判明しています。

    制作年代は一番古い物で、16世紀前半の口径50cm余りの大皿で、龍と唐草文様が

    描かれています。次いで、16世紀中頃の口径約40cmの大皿で、魚文、禽獣文、葡萄文

    が描かれています。17世紀前半の「芙蓉手」の皿、そして17世紀末の皿です。

    約200年間の景徳鎮の皿が、時代区分されて配列されています。

   c) 17世紀後半の西洋の王室では、権威の象徴として、青花磁器の食器や「磁器の間」を

    作る事が流行(はやる)します。

   d) ポルトガルと中国の交易。

    1554年 ポルトガルは中国広州に1557年にはマカオに貿易拠点を築きます。

    ポルトガルは中国に青花磁器を発注し、膨大な磁器が海外に流出します。

  ?) アルデビル霊廟(イラン): 青花盤が19個あります。

  ?) トプカプ宮殿博物館(トルコ): 青花盤が19個あります。

    15世紀〜19世紀にかけて、スルタン達が、シリアやエジプトを征服した際に、戦利品

    として、優れた作品のもを蒐集した膨大なコレクションと言われています。

    中国磁器の製品は、1万2千点におよぶ膨大量とされれいます。

   ?) トゥグルク宮殿(インド): 69点の青花磁器の盤、鉢、碗が出土しています。

以下次回に続きます。

質問9 楽焼とガス窯について

$
0
0
坂下様より、以下の質問を頂戴しました。

楽焼ですが私は小型ガス窯一般用しか持ってませんが、その窯で楽焼をやる方法を教えて下さい。

800度になったらどういうことをすればいいでしょうか。


明窓窯より

 楽焼は800℃程度の低い温度で焼成する焼き物です。

 楽焼の方法には、主に二つの方法があります。

 A) 800℃程度に昇温した窯に、作品を入れ釉が熔けた段階で、鉄の火箸で挟み出す方法です

   急熱急冷を行う事で、鮮やかな黒色に発色します。これを「引き出し黒」と言います。

   尚、当ブログでは主にこの方法に付いて述べています。

 B) 一般の本焼き(1200〜1250℃)と同様な方法で、800℃程度で行う方法です。

   即ち、高温の窯の中に作品を出し入れしない方法です。これを「置き冷まし」と言います。

   歴史的にはこの方が、古いやり方です。

 ◎ では本題に入ります。

   一般に、楽焼は楽焼専用の窯を使います。この窯は胴の横方向、又は天井部に作品を出し入れ

   する小窓(蓋)が付いていますので、加熱状態で作品の出し入れが可能です。

   今回は小型ガス窯一般用での楽焼をご希望です。

1) 焼きたい作品の種類と、焼く数に応じて考える必要があります。

  「黒楽茶碗」を焼きたい場合や、短時間で連続して多数の作品を焼成したい場合には、

  A)の方法を採ります。「黒楽茶碗」以外の作品(例えば人形などの置物)であれば、

  B)の方法が危険も無く無難な方法です。 

2) A)の方法では、高温(800℃以上)の窯の扉を開ける必要があります。

 ? 当然、作品は楽焼用の釉で施釉された状態で、表面が乾燥している必要があります。

   手早く作品の出し入れをする為にも、作品の準備や窯の周囲の整理整頓が大切です。

 ? 扉を開ける際、ガスが点火した状態ですと危険ですので、なるべく火は止めた状態にしたい

   です。炎が直接身に迫ると危険です。

 ? 扉を開けると、開いた状態(隙間)と開いている時間によって違いますが、確実に窯の温度は

   下がりますので、850〜900℃程度まで上げておいた方が良いでしょう。

   窯によっては、1〜2分程度で、直ぐに100℃下がる事も稀ではありません。

   作品は、手早く取り出し易い状態で窯に並べます。横扉では手前側に置きます。

   作品の一つ以上は、色味穴から釉の熔け具合が見られる場所が最適です。

 ? 扉を閉じて再点火し、温度を上げ作品の表面がテカル状態に成れば、釉が熔けていますので

   扉を開けて引き出す事が可能です。加熱時間は10〜20分程度です。

   この場合も火は止めておく方が安全です。

   釉が熔け過ぎると光沢(テカリ)が強く出、熔け不足ではザラツク感じになりますので、

   加熱時間を調整します。尚、熔け不足の場合、再度窯に入れて焼く事が出来ます。

 ? 火が止まっていても、扉を開けると熱風が出てきますので、手袋が必要ですし場合により

   眼鏡などを用意した方が安全です。くれぐれも火傷(やけど)をしない様に注意する事です。

   更に、前もって作品を火箸で掴む練習をしとおくと、後々役にたちます。

3) B)の補足説明。

  楽焼は急冷する事で、黒い色が鮮明に成ります。そこでB)の方法で少しでも早く冷やす方法を

  述べます。

  ? 窯は下段から冷え始めます。それ故、早く冷ましたい作品は、窯の最下段に窯詰めします。

  ? 放熱を早くする。但し、窯内部を急に冷やすと、窯を痛めるますので、急冷は避けたいです

   ?) 色味穴などがあれば開く。この程度の穴ならば、火を止めた直後に開いても安全です。

   ?) 窯の温度が300℃程度に成ったら、扉を徐々に開く。

      窯の壁の厚さによって冷えの速度は変わります。

      尚、300℃程度に成れば、直接引き出した方が早いかも知れません。

   ?) 冷えが遅い場合には、扇風機で窯に風を送り込み冷やします。

4) 最後に、800℃程度の温度は素焼きの温度とほぼ一緒です。

   それ故、素焼きの作品と一緒に焼く事も可能ですが、素焼きの土が急冷に耐えられない場合

   には、窯を急冷する事は危険です。

以上ですが、疑問点などがありましたら、再度質問して下さい。
  

焼き物の着物(色彩)81 染付3(景徳鎮3)

$
0
0
3) 中国明代(1368〜1644年)の景徳鎮窯。 

 1368年、貧しい農民の生まれと伝えられている、漢民族の「朱元璋(洪武帝)」が、「元

 (モンゴル帝国)」を倒し、南京に「明王朝」を建国します。「元」の支配していた東アジアから

 ヨーロッパに掛けての広大な地域は「明」がそのまま引き継ぐ事になります。

 ? 龍泉窯、磁州窯、鈞窯(きんよう)は、元の滅亡と伴に衰退し、地方窯として存在する様に

  なります。一方景徳鎮窯は、中国国内の陶磁器の生産の中心を担い、発展を続けます。

 ? 官府専用の御器蔽(官窯)の設置。

   洪武帝(朱元璋)は、宮廷で使う陶磁器を製作させる為に、優れた陶工を集めて景徳鎮の

   珠山に御器蔽を設けます。

  ?) 最高級の陶磁器を作る為、監督する役人を派遣し、品質の管理に当たらせます。

  ?) 御器蔽で作られた陶磁器は、宮廷と官府でのみ使用され、一部貢物として外国に贈られ

     る以外は、海外に輸出する事もありませんでした。

     海外に輸出されていた陶磁器は、景徳鎮の市街地内や郊外の民窯や、官が管理しない処

     で作られた焼き物です。

  ?) 陶磁器の底の裏側には、「宣徳官窯(1425〜1435)」の中期以降、王朝銘を記した年款銘

     を付す事が義務付けられていました。

 ? 青花磁器の様式。

  ?) 洪武帝(1368〜1398年)と永楽帝(1360〜1424年。在位期間1402〜1424年)の青花磁器。

   a)洪武時代には、青花と釉裏紅磁器が顕著な作品です。

    文様は植物文が中心で、牡丹、菊、松竹梅、芭蕉などです。周囲は唐草文が取り囲んだ図式

    で、形式化されたものでした。この時代の青花磁器は「元」の時代に比べコバルトの発色も

    黒ずんで悪く、透明感も欠けると言われています。これは、イスラムからの輸入が減り、

    コバルト顔料が欠乏した為と言われています。

   b) 釉裏紅は辰砂(しんしゃ)とも呼ばれ、コバルトの代わりに酸化銅を使う方法です。

     (尚、本物の辰砂は水銀の仲間で、銅ではありません。)

   c) 三代永楽帝は、各地に遠征し領土を拡大し、一大帝国を築きます。更に、南京から北京へ

     遷都します。 彼の時代に、景徳鎮は黄金期を向かえ、数々の名品が製作されています。

     又、「鄭和の大船団(大遠征)」などで積極的な貿易を行い、中央アジアや西アジアの

     交流が、活発化させる事になります。その為、コバルト顔料の輸入が増えます。

     特に「蘇麻離青(そまりせい)」と呼ばれる顔料は、マンガンが少なく、鉄分が多い為

     鮮やかな青に発色します。

   d) 鄭和(ていわ)の大船団(大遠征): 鄭和は明代の宦官(かんがん)で武将です。

     時の皇帝の永楽帝に抜擢され、1405年から29年間に前後7回に渡り、東南アジア、インド、

     アラビア半島などに遠征を行います。 大船62隻、乗組は2万7800名余りの大船団です。

     目的は中華王朝の威を世界に知らしめる事と、朝貢国を増やす事と言われています。

     中国からは景徳鎮の御器蔽の青花磁器などの、40cm以上の皿などの製品はこの時に

     中近東に運ばれた物です。海外からは珍宝の輸入や各地の情報収集がなされます。

     他に猛獣や大型獣と共にキリンが運ばれています。 又、この遠征により膨大な外貨の

     獲得がなされ、明の国力増強に繋がりました。

  ?) 宣徳期の青花磁器。

以下次回に続きます。

焼き物の着物(色彩)82 染付4(景徳鎮4)

$
0
0
 ? 青花磁器の様式。

  ?) 宣徳期の青花磁器。

   宣徳は1426〜1435年のわずか10年程でしたが、この時期の青花磁器は、永楽期に続き、

   黄金期を向かえます。この時期の青花の皿の底には、「大明宣徳製」の年款銘が記されて

   います。製品は、精緻で宮廷磁器として完成度が一段と上がっています。

   宣徳期の製品は、国外に輸出する事が禁じられた関係で、中近東では数が少ないです。

   a) 「雲堂手(うんどうて)」の青花磁器。

    我が国の茶道具として取り入れられた皿で、人物文や山水楼閣などの文様の背景に、雲形の

    縁取りがされています。

  ?) 成化、弘治、正徳期の青花磁器。

    成化帝(第9代:在位1464〜1487年)。弘治帝(第10代:在位1487〜1505年)。

    正徳帝(第11代:在位1505〜1521年)

   a) 成化の前の半世紀の間、政争が絶えず景徳鎮で年款が入った物は見つかっていません。

   b) 成化の時代に成ると、再び活況を呈する様になり、青花磁器が作られます。

    ・ 作品は生活器を中心とした、小形の盤、鉢、碗などが多くなります。

    ・ 文様も一段と様式化し。花鳥文や唐草文が多くなります。

   c) 成化の時代に、五彩磁器(赤、緑、紫、黄)や黄地青花、豆彩(とうさい)、雑彩磁、

     などの色絵磁器が多く作られています。

    注1: 五彩磁器: 青花磁器に上絵付けの方法で他の四色の色を、焼き付ける方法です。

     尚、12〜13世紀の磁洲窯で赤絵(紅緑彩)の装飾が始まっています。

    注2: 豆彩:景徳鎮官窯で完成された手法で、文様の輪郭を青花の細い線描いた白磁に

     上絵具(赤、緑、紫、黄)を丁寧に塗り分けて焼き付けた方法です。特に緑色が空豆の

     様に焼き上がったものが珍重されています。器壁は薄く青花の発色は淡く上絵具の色調は

     明るく鮮明です。洗練された優美な作風と成っています。

   d) 正徳期の官営窯で文様や年款に、アラビヤ文様やアラビア文字が多く使われている事から

     陶人にアラビア系の人々がおり、イスラム向けに生産されていたと思われます。

     1557年私的交易がなされる様になると、景徳鎮の独占は崩れ、雲南省の民窯(玉渓窯)

     でも、青花磁器が生産され、輸出される様になります。

   e) 中近東のトルコやイラン、エジプトでも青花磁器の模倣が行われる様になります。

  ?) 嘉靖(1522〜1566年)、萬暦(1573〜1619年)の青花磁器。

   a) 嘉靖期に成ると、御器の製作が膨大になり、一部を民窯に外注される制度が出来ます。

     これを「官塔民焼(かんとうみんしょう)」と言います。又、景徳鎮の陶工も自分の窯を

     持つ事が出来る制度もできましたので、民窯の技術は格段に進歩します。

     但し、官と民の区別の為、官では「大明嘉靖年製」なのに対し、民では「大明年制」、

     または「大明年造」などに限られていました。

   b) 西洋からの直接注文。

     17世紀に成ると、オランダ東インド会社が西洋への輸出業務に参加する様になります。

     当時のヨーロッパの王侯貴族では、中国の磁器は金銀の食器と同等の価値がり、所有す

     る事はステイタスシンボルとも成りました。特に「芙蓉手」と呼ばれる大型の青花磁器は

     人気があった様です。尚、17世紀前半で数百万個の磁器が輸出されています。

   c) 嘉靖期では、青花磁器と共に五彩磁器が多く生産されれ、次第に後者が主流に成って

     いきます。更に、製作品が多く成るに従い、粗製乱造の様相を呈する様になります。

   d) 萬暦期の赤絵は、著名な磁器の焼き物ですが、今回は青花(染付)がテーマですので、

     今回は割愛します。後日、日本の赤絵を含めてお話する予定です。

 以下次回に続きます。

焼き物の着物(色彩)83 染付5(景徳鎮5)

$
0
0
中国の「元時代」や「明時代」に造られた青花(染付)磁器は、多くはイスラム各国などに輸出

されていますが、我が国にももたらされていました。特に沖縄の琉球王国には多数の青花磁器が

存在していました。但し、日本本土では、20数箇所より少量の陶片が出土しいるとの事です。

4) 沖縄琉球王国と青花磁器。

  わが国で最初に「染付」の記載があるのは、南北朝時代の東坊城秀長の日記「迎陽記(げい

  ようき)」で、「ちゃわんそめつけ」の文字があるそうです。14世紀後半には景徳鎮製の青花

  磁器が流入していた事になります。

  近年、沖縄県教育庁による発掘調査が行われ、各地で10〜17世紀の中国陶磁器が出土します。

 ? 琉球各地の城塞(グスク)からの出土品。

   12〜15世紀の中国陶磁器の多くは、各地の豪族の政治経済の中心地のグスクで、中国陶磁器が

   出土しています。

  ?)1429年、琉球が中山(ちゅうざん)王を破った尚巴志(しょうはし)により、統一される

   以前は、三山鼎立(ていりつ)時代と呼ばれ、山北(さんほく)には、今帰仁(なきじん)城

   があり、中山には浦添城、山南(やまなん)に島尻大里城が築かれ、三勢力が対立し、興亡を

   繰り返していました。

  ?) これら三勢力は、各々独自に明に貢物(みつぎもの)をし、交易を行っていました。

   今帰仁城址からは、13〜14世紀の龍泉窯の青磁、天目・褐色磁器、青花磁器、タイ陶器、

   朝鮮の磁器などが出土します。本島中部の連勝城からは、元代の青花磁器の盤や瓢形瓶が

   発見されています。

 ? 首里城の発掘調査。

  ?) 首里城は琉球王国の王城として、15世紀前半に築かれます(異説あり)。

    規模は、東西約350m、南北200mで三重の石壁が巡らされていました。

    尚、1453年、1459年、1660年、1709年と数度の火災に会いますが、その都度再建されます。

  ?) 城の正殿裏側には二階殿が、外郭の南側には京ノ浦と呼ばれる聖域があります。

    この京ノ浦から大量の青花磁器の破片が発掘されます。これは1459年の火災の際に廃棄処分

    された物と思われています。

  ?) 京ノ浦からは、元代の青花磁器の龍文馬上杯、人物文大形盒など61点、明代初期の

    景徳鎮製の青花牡丹唐草文梅瓶(めいびん)、青花松樹唐草文双耳瓶、青花唐草文壷などの

    上質な磁器の破片が出土します。その他、ベトナム産の青花磁器は15世紀代の物です。

    二階殿からは、青花蓮池文白花牡丹唐草文盤、龍文玉春瓶、片口などの破片が発掘されて

    います。

  ?) 海外輸出を制限していた、明代前期の景徳鎮磁器がこれほど多く出土するには、訳が

    ある様です。即ち、洪武帝に馬、硫黄などを貢物として持参した琉球の王の使いに、帝より

    返礼として、絹や羅、紗(いずれも織物)とともに陶磁器七万五千点余りが下賜された

    事が中国の「太祖実録」に記載されています。但しこの数は、下賜としては異常に多く、

    琉球が東南アジアや朝鮮との交易の為の商品を、仕入れた可能性もあります。

  ?) 首里城からの出土品と同じ物が、フィリピンやインドネイアからも出土から、琉球と

    東シナ海や南シナ海と南海貿易が行われていた事は、確実です。

  ?) 首里城出土の陶磁器は、14〜19世紀の約500年に渡っています。

    中国産の陶磁器が63,629点、タイ・ベチナム産の陶磁器が7,265点との事です。 

    尚、1609年薩摩藩の攻勢を受け、その支配下に入りますが、これ以降我が国の焼き物が

    琉球に流入します、しかし明、清との交易はその後も続いていました。

次回より、「古伊万里」に付いてお話します。

焼き物の着物(色彩)84 古伊万里焼1

$
0
0
我が国の近代工芸は、江戸時代(前期〜幕末)からとされています。

時の権力は豊臣家から徳川家に移り、幕藩体制が確立するに従い、従来と様相が異なる様になります

即ち、焼き物製作が領主経済と結び付き、藩政によって保護され、更に藩の専売制度や、各地の

問屋制度が充実するに従い、作業は分業化され、量産体制へと順次移行してゆきます。

その中でも、肥前の磁器は異常に発達し、活況を呈し、その名声は海外にまで知れ渡ります。

1) 伊万里焼きとは。

  伊万里焼は、有田(現、佐賀県有田町)を中心とし、三川内焼、波佐見焼などの肥前国(現、

  佐賀県と長崎県)で生産された磁器の総称です。

  製品の主な積み出し港が近くの伊万里であったことから、「伊万里焼」と呼ばれていました。

  江戸時代に有田一帯で焼かれた磁器は、伊万里焼、柿右衛門焼、鍋島焼などに分別されます。

2) 我が国の磁器製造の始まり。

 ? 中国の磁器は「元」や「明」との交易で、すでに室町時代には、我が国に伝えられ、茶の湯の

  世界では、唐物として珍重されていました。しかし我が国では未だ作る事は出来ませんでした。

 ? 従来の説では、鍋島藩の藩祖鍋島直茂が、豊臣秀吉の文禄・慶長の役に参加し、朝鮮から

  多くの陶工を日本へ連行してきます。これらの陶工の中に、李参平(日本名金ヶ江三兵衛)

  がおり、有田の泉山で磁土を発見し、元和2年(1616年)に有田東部の天狗谷窯で、初めて磁器が

  焼き始められたとされていましたが、近年の上白川天狗谷古窯址の発掘調査で、上記よりも

  更に古い事が判明します。

 ? いずれにしても、朝鮮から連行された陶工達によって、磁器作りが始められた事は確実です。

   当時朝鮮では、白磁が焼成されていましたので、その技術を持った陶工も多かったはずです。

3) 古伊万里 

 ? 現在でも、伊万里市内で伊万里焼が製造されていますが、江戸時代に有田を中心に焼かれた

   ものは「古伊万里」と呼ばれています。

 ? 磁器の生産が始まった1610年代〜1630年代頃までの製品は「初期伊万里」と称されて

   います。この時期には、主に染付白磁が作られています。

   我が国の磁器の焼成は、染付から始まり、白磁のみはほとんど見受けられません。

 ? 正保年間(1644〜1646年)に赤絵が創始されます。その後延宝(〜1680年)頃の赤絵が盛んに

   製作される様になります。更に、輸出の最盛期を向かえる事になります。

 ? 古九谷焼も発掘調査より、有田で焼かれた事が判明します。

   「古九谷」については、後日お話します。

4) 古伊万里の特徴

 ? 初期伊万里の時代では、白磁の染付が主で、絵付けの前に素焼をしない「生掛け」技法を

   用いています。

  ?) 江戸初期、中国の天啓年間(1621〜1628年)に染付けの磁器が大量に輸入され、その後

    祥瑞(しょんずい)が輸入される様になると、染付磁器の需要(人気)が急増します。

  ?) 白磁の製作に成功すると、自然に染付けの作品に移行して行きます。

    尚、この頃朝鮮では、染付けの磁器はほとんど見つからないとの事です。

    顔料の呉須(コバルト)の存在が知られていなかった為と言われています。

  ?) 当初は中国風の文様でしたが、次第に和風化され「伊万里様式」へと変化してゆきます。

    特に寛永年間(1624〜1644年)に、有田郊外の黒牟田山辺田窯や、百間窯で焼かれたと

    思われる深鉢などは、本場中国の染付を凌ぐ(しのぐ)作品に成っています。

    特に、初期伊万里の染付の大皿や大鉢類は、ほとんど上記二つの窯で焼かれたものです。

  ?) 初期伊万里で多く焼かれた染付の作品は、小皿、中皿、碗、小壷、徳利で、大皿や大鉢は

    むしろ希少であった様です。尚、これらの多くは天神森窯、稗古場(ひえこば)窯で優れた

    作品が作られていました。特に著名なのは、「吹墨手」と呼ばれる皿で稗古場窯で焼かれた

    物です。 

    注: 吹墨手(ふくずみて)とは、型紙を置きその上から呉須を吹き掛けるという素朴な技法

    です。

以下次回に続きます。

焼き物の着物(色彩)85 古伊万里焼2

$
0
0
4) 古伊万里の特徴

 ? 初期伊万里の技術的特長。

   1605〜1633年前後に有田内山、外山地域で焼かれた磁器製品を「初期伊万里」又は「初期

   有田」といいます。

  ?) 素地の材料は、磁器、又は半磁器土です。

  ?) 成形技術は、古唐津系の陶器の造り方に似ています。即ち、碗や皿、瓶類は高台が高く

    径が小さ目で、底や高台の削り方は古唐津の技術を継承しています。

  ?) 装飾絵模様は、当初は朝鮮の李朝中期の染付磁器と同様の、単純な模様でしたが、寛永

    年間(1624〜1644年)に入ると、次第に中国「明」末の染付磁器の様式が導入される様に

    なり、より複雑な文様に変化して行きます。「明末」の染付(青花)磁器が衰退に向かう中

    有田では新しい焼き物として登場する事に成ります。それ故、単に中国の「古染付」や

    「祥端(しょんずい)」などの模倣ではなく、有田独自の意匠による多種多様な作品を

     造りだしています。

  ?) 初期伊万里には、瑠璃釉や鉄釉を掛けた物、その他に鉄釉の地に染付で模様を施した

    作品などもあります。これらも、有田の発掘調査で判明します。

  ?) 伊万里焼きには、茶道具が無いと言われていました。事実、伝世品には著名な茶道具は

    無いようです。しかし、初期伊万里の中に、水指と思われる作品が多く有る事が判明します


    但し、近年、良質な伊万里焼きではなく、下手(へた)な染付磁器とみなされ、軽んじられ

    ていた初期伊万里の染付です。しかし、17世紀後半には、ほとんど造られなくなります。

  ? 初期伊万里の作品。

   ・ 染付吹墨月兎(げっと)文皿: 吹墨手の名品。

     高さ、4.4cm、 口径、19.8cm、高台径、6.8cm

   ・ 染付山水文皿: 黒牟田山辺田(やんべた)窯。日本民藝館蔵。

     高さ、13.1〜15.2cm、 口径、47.9cm、高台径、12.3cm

   ・ 染付花卉(かき)文徳利: 初期伊万里を代表する徳利。箱根美術館蔵。

     高さ、31.5cm、 口径、5.3cm、胴径、17.6cm、底径、10.6cm

     胴をハ八分割し、一つ置きの四面に樹木、菊、草花、蔓草文が濃い呉須で描かれています

   ・ 瑠璃釉蓮文水指: 

     高さ、20.8cm、 口径、13.3cm、高台径、11.7cm

     正面の蓮を、染付と白泥で表し、蓮の葉脈は白抜きされ、全体に淡い瑠璃釉が施された、

     他に例を見ない作品です。

   ・ 鉄釉千鳥文皿: 百間窯(又は、山小屋窯)。箱根美術館蔵。

     高さ、3.3cm、 口径、15.8cm、高台径、4.8cm

     鉄地に千鳥を白抜きし、染付を千鳥の嘴(くちばし)や脚に点じています。

5) 伊万里焼(有田焼)が初期伊万里より脱却し、窯元の下で、磁器生産の専業化がなされ、

  分業化するのは、寛永十年前後〜寛文十年前後(1633〜1670年)の30〜40年間を要します。

 ? 陶磁器の生産者は半農半工的立場でしたが、次第に専業化が進みます。

 ? 分業は主に「土伐り」「細工」「絵書」「窯焚」に分かれ、職人の「座」を結成していました

   5〜7の窯元が「窯株」を持ち、十数室を有する半地上式階段連房の登窯を、共同運営して

   います。絵書座でも「染付」と「色絵付」に細分化されます。この事で量産体制が整います。

 ? 鍋島藩の運上金(税金)の徴収。

  寛永12年(1635年)、藩史山本神右衛門重澄に命じて、有田皿山より運上金を徴収します。

  山本神右衛門(1590〜1632年)は、大勢の陶工による山の木の伐採で、枯渇するのを憂い藩に

  進言し、日本人陶工の打ち払いと、窯場の整理統合を行います。

  (但し、陶工の打ち払いは、不況による人員整理との説もあります。)

  寛永14年には、有田郷内で七、伊万里郷内で四箇所の窯場が指定され、質的向上を目指す

  とともに、藩の財政に組み入れられます。(これらの窯の所在は、現在不明です。)

6) 色絵磁器(赤絵)の誕生。

以下次回に続きます。
Viewing all 836 articles
Browse latest View live