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焼き物の着物(色彩)49 中世の美濃窯 4(黄瀬戸1)

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黄瀬戸は室町時代から安土桃山時代に、優れた黄色(黄金色をイメージ)の焼き物として出現します

永禄から天正に掛け、戦国の世の中が治まりつつあった当時、焼き物が「侘び茶」の世界に

「茶陶」として取り込まれ、需要が増大するに従い、伝統の上に新感覚の作品が次々に作られる様に

なります。特に桃山期の天正から文禄(1573〜1595年)の短い期間に秀作が作られます。

この期間の黄瀬戸には、油揚手(あぶらげて)と菖蒲手(あやめて)と言う黄瀬戸の代表的な焼き物

が作られます。

黄瀬戸と古瀬戸の釉は非常に似ています。それ故、古瀬戸の釉が発展したのが、黄瀬戸ではないかと

思われています。但し、古瀬戸の釉が「くすんだ色合」に焼き上がっているのに対し、釉を改良する

事で、黄瀬戸はより黄色味が強く成っています。

更に、朝鮮系の焼き物に「伊羅保(いらぼ)」釉があります。これも、古瀬戸や黄瀬戸と同様に

草木灰に黄土や鉄分を調合して施釉したものです。

1) 黄瀬戸の発生。

  黄瀬戸は、鎌倉時代以降の古瀬戸の灰釉(かいゆ)の流れを汲む釉です。

  ? 先駆的作品として、室町後期に作られと思われる作品に、茶人の北向道陳(きたむき

   どうちん、1504〜1562年)の好みの伝承のある茶碗が有名です。

   丸碗と半筒茶碗を合わせた様な形で、素地に鬼板を施し灰釉を掛けた黄瀬戸です。

   ・ 黄瀬戸茶碗: 高さ 8.5cm、口径 12.5cm、高台径 4.5cm

     かって大阪の鴻池家に伝来した物で、箱書きに「北向道陳 好」の書があり、千利休に

     伝来したとされています。

  ? 黄瀬戸の主な作品は、純然たる茶碗などの茶道具ではなく、向付や鉢など懐石料理の高級

    食器として作られた物が多いです。

    室町以降中国の元や明などからもたらされた、青磁や白磁を模倣した皿や鉢を作っていた

    美濃では、「侘び茶」の普及と伴に、桃山風の高級食器を作る様になります。

2) 黄瀬戸の分類: 一般に四種類に分けられます。

 ? 「ぐい呑手」: 細かい貫入の入った、淡い黄色の光沢のある釉です。

   利休好みと言われ、素直な形状の物が多いです。天正年間に多く焼かれます。

 ? 「菊皿手」: 菊形の小皿に多く、雑器として作られた物です。

   口縁部に銅緑色の釉が掛けられている物が多い様です。

 ? 「油揚手」: 光沢が無く柚子肌で、しっとりとした油揚げを思わせる色の釉肌が特徴です。

   代表的な作品に、黄瀬戸茶碗 銘 朝比奈があります。

  ?) 高さ 8.9cm、口径 13.1cm、 高台径 6.0cm 桃山時代(大萱窯)北陸大学蔵

  ?) 轆轤挽き後に箆取した力強い作行で、胴には真横に一本胴筋が廻らされ、腰の一部に

    面取り風の箆目があります。

  ?) 千宗旦(千家三代目、利休の孫)が高台脇に「アサイナ」の銘を朱漆で直書きしています

    箱蓋表に「アサイナ 茶碗 宗旦」の書付があり、宗旦の所持として、千家に伝来し、
 
    後に三井八郎衛門家に伝わり、近年まで同家に有った茶碗です。

 ? 「菖蒲手(しょうぶて)」: 鉢や向付(むこうつけ)などの食器類に多いです。

   名前の由来ともなる、代表的なのが「黄瀬戸菖蒲文輪花鉢」です。

  ?) 高さ 6.0cm、口径 25.3cm、底径 14.8cm 桃山時代

  ?) 俗に鉦鉢(どらばち)と呼ばれる形状です。

  ?) 深い見込み部に、一株の菖蒲がいっぱいに線彫りされ、葉には胆礬(たんばん)が濃く

     塗られています。縁は花唐草の線彫りと鉄と胆礬で彩られています。

    ・ 注:胆礬とは、硫酸塩鉱物の一種です。化学組成は硫酸銅の水和物であり、水によく

       溶け素地に吸収され、表から裏側に抜ける事もあります。(抜け胆礬と言う)

       焼成すると、成分の銅が緑色に発色します。

3) 黄瀬戸の釉に付いて。

以下次回に続きます。

   

焼き物の着物(色彩)50 中世の美濃窯 5(黄瀬戸2)

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3) 黄瀬戸の釉に付いて。

 黄瀬戸の良い物は、テカテカ光沢のあるものではなく、油揚手と呼ばれる焼き物と言われています

 桃山期の良品は、志野と同様に大萱の窯下窯で焼かれた物に多いとされています。

 ? 黄瀬戸の釉は、鉄分を多く含む木灰を使った灰釉(かいゆ)です。

  ?)木の種類は、栗、椿、樫(かし)、楢(なら)、欅(けやき)、松、柞(いす)などが多く

   使われています。又雑木を焼いた灰を、土灰(どばい)と言い、良く使われる灰です。

  ?)木灰に含まれる主の成分。

    石灰(炭酸カルシウム)、珪酸、アルミナ、鉄分、マグネシア、燐(りん)などです。

    樹木の産地、種類、根、幹、葉などの部位により、その成分に違いがあります。

  ?) 樹木を焼いた灰は水と伴に細かく粉砕し、何度も水に晒して灰汁(あく)を取り除きます

    更に、乾燥した灰と石粉(長石の半分解物)を調合して釉にします。

    尚、天然の樹木は都市化の影響で、採取しずらくなります。それ故現在では、桃山時代と

    同じ様な黄瀬戸の作品(釉薬)を作る事は、困難になったと言われています。

   ・ 天然灰を理想としますが、高価である事と品質にバラツキが有りますので、現在では、

    各種の合成の灰を使う事も多くなりました。  

  ?) 施釉した作品は、酸化焼成で鉄分が黄色や茶色に発色しますし、還元炎では黄緑色に成り

    ます。 当然樹木の種類によって発色に差が出ます。

    尚、黄瀬戸の第一人者と言われた加藤唐九郎氏は、良い油揚げ手の釉として、備長炭の灰を

    使っています。

   ・ 注:備長炭とは、「うばめ樫」又は、樫(かし)全般の木で作る木炭です。

     1千度程度で焼く「白炭」で、非常に堅く、燃焼時間が長いのが特徴です。

? 黄瀬戸釉の調合例。

  ?) 土灰 50、長石 25、赤土 25

  ?) 土灰 50、長石 40、藁灰 10、 酸化鉄 1(外割り)

    酸化鉄を入れるのは、後世に行われる様になり、桃山期には入れていません。

  ?) 土灰 40、赤土 40 SK8透明釉 20

  施釉は「ズブ掛」(浸し掛)の方法を採っています。

4) 桃山期の優れた黄瀬戸の焼き物。

  ?) 重要文化財 黄瀬戸立鼓花入 銘 旅枕 : 桃山時代 和泉市久保惣記念美術館蔵。

    高さ 21.4cm、 口径 10.5cm、 底径 11.9cm

    千利休の所持の花入で、利休自記筆の「セト 里うこ 花入」の文字が箱書きされています。

  ?) 黄瀬戸茶碗 銘 難破: 桃山時代 大萱の窯下窯

    高さ 7.2cm、 口径 11.7cm、 底径 8.0cm 

    背が低く高台が大きい事から、本来向付けとして作られた物と思われています。

    油揚手の黄瀬戸茶碗の中で、第一の名碗と言われています。

    かって益田鈍翁の愛憎品です。

  ?) 重要文化財 黄瀬戸大根文輪花鉢 : 桃山時代、 萬野美術館蔵

    高さ 7.4cm、 口径 24.8cm、 底径 13.8cm

    形はいわゆる鉦鉢(どらばち)です。見込みいっぱいに大根一株が箆(へら)で線彫り

    されています。大根の葉と周囲の輪花部には、胆礬(たんばん)が薄く点じられています。

    この鉢も、かって益田鈍翁の愛憎品です。

  ?) 前述した様に、黄瀬戸の胆礬を打った良品は、主に鉢や向付けなどの食器類として、

    作られ、茶会後に行われる食事会、即ち懐石料理を盛る器でした。

    又、茶碗の制作例は少なく、向付けを茶碗に転用する場合が多かった様です。

    黄瀬戸の食器類が懐石料理での主役であったのは、短い期間で次に現れる織部に取って

    変わられる運命にありました。   

以下次回(瀬戸黒)に続きます。

焼き物の着物(色彩)51 中世の美濃窯 5(瀬戸黒)

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1) 瀬戸黒とは。

 室町時代以降美濃では、瀬戸と同様に天目茶碗が多く焼かれていました。

 瀬戸黒は主に抹茶々碗の釉として使われる事が多いです。

 瀬戸黒とは、瀬戸で焼かれた黒茶碗の事ですが、実際には美濃の窯で焼かれた物です。

 ? 引出黒(ひきだしくろ)。

  ?) 窯の中の釉の熔け具合を確認する方法に、色見用の茶碗や陶片を鋏(はさみ)などで

   挟み出すやり方があります。熱い窯から急に冷たい外気に晒されると、釉の中の鉄分が光沢の

   ある黒色に変化します。この事を利用したのが、瀬戸黒の始まりです。

   尚、窯の中で冷やす「置き冷まし」の方法でも、黒く発色しますが、引出す方がより鮮やかな

   黒に成ります。それ故「引出黒」と呼ばれる事もあります。この方法は黒楽焼の技法にも

   使われています。

  ?) 色見で不要になった陶片や焼き損じた作品などは、窯の側(そば)にある「もの原」

   と呼ばれる捨て場に捨てられます。桃山期に美濃で焼かれた無傷の完品は極く少なく、多くは

   「もの原」で拾った物が多い様で、ここから「掘り出し物」の言葉が生まれたそうですが、

   現在ではその「もの原」も掘り尽されてしまっています。 

 ? 本格的に引出黒で、茶碗を焼き出すのは、室町時代後期から永禄年間頃と言われています。

   天正(1573〜1592年)の頃に盛んに焼かれた為、「引出黒」と同様に「天正黒」とも呼ば

   れる事もあります。

  ?)瀬戸黒の釉について。

    鉄釉である天目釉より、鉄分を大目に調合しますが、大切な成分は「マグネシア」です。

    「マグネシア」が少ないと、茶色に発色します。

   ・ 注:「マグネシア」は、タルク(滑石)から取ります。滑石を使う場合には焼滑石を

     使います。   

  ?) 瀬戸黒の特徴。

   a) 初期の頃は、「すっぽん口」の特徴のある天目茶碗が作られます。

   b) 一般に瀬戸黒茶碗は、筒型の茶碗が多いです。高台は低く竹(又は木)箆(へら)を

     使って、手で小さ目に仕上げています。

   c) 「引出黒」の場合、鋏(はさみ)で挟んだ痕が付いています。これも見所(景色)の

     一つになっています。

   d) 土はややざんぐりした鉄分を含み、焼き上がりもくすんだ焦げ茶色をしています。

  ?) 瀬戸黒の名品。

   瀬戸黒茶碗は、美濃の小名田で焼かれ始まり、浅間(せんげん)、大萱の窯へと移ってい

   きます。最も優れた作品は大萱で焼かれた物です。

  a) 瀬戸黒茶碗 銘 小原木: 大萱、桃山時代、瀬戸黒を代表する、筒型の茶碗です。

   高さ 8.8cm、口径 10.2cm、高台径 5.0cm

   千利休の所持していた物と、伝えられています。

  b) 瀬戸黒半筒茶碗 銘 小原女: 牟田洞窯又は窯下窯、桃山時代、

   作為の少ない、大振りな作品です。

   高さ 8.7cm、口径 13.3cm、高台径 5.8cm

  c) 瀬戸黒筒茶碗 銘 冬の夜: 17世紀始め。

   高さ 10.0cm、口径 10.0cm、高台径 5.0cm

   裾(すそ)がやや張った筒茶碗です。素直に轆轤挽きされ、箆目はほとんどありません。

 瀬戸黒と同じ様に引出黒の茶碗に、織部黒があります。但し、器の形に大きな違いがあります。

 制作年代は瀬戸黒よりも後世の、慶長、元和の時代で、久尻の元屋敷で作られています。

 以下次回(織部)に続きます。  
  

焼き物の着物(色彩)52 中世の美濃窯 6(織部1)

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「織部」とはご存知の様に、茶人でも有り、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた武将でもある

古田織部の名前に由来しています。

  注:古田織部(1544〜1615年 )は、千利休(1522〜1591年)亡き後、茶道界の指導者と

   なった人物です。

 「織部焼」と言う場合、「古田織部が指導し、作らせた美濃の焼き物」の意味と、「織部好みの

 焼き物」と言う考え方があります。実際に古田織部が指導したとする明確な資料は無い様です。

1) 「織部焼き」の初見。

  「宗湛(そうたん)日記」 1599年(慶長4年)に

  「ウス茶ノトキハ セト茶碗 ヒツミ候也 ヘウケモノ也」の記載があります。

   注: 神谷宗湛(1551〜1635年)は博多の豪商で茶人でもあり、当時の博多以外の堺(大阪)

      京都などの茶会の様子を書き留めています。

  このセト茶碗とは、「織部沓茶碗」に付いて述べた物と解されています。即ち「ヒツミ候也」は

  「歪(ひずみ)」を意味し、「ヘウケモノ也」は「おどけている様」を表しています。

  その様な茶碗は、当時沓形茶碗のみであった事などから、推察されています。

2) 高麗茶碗より我が国で作られた茶碗が多く使われる様に成ります。

  「草人木(そうじんぼく)」 1626年。「茶器弁玉集」 1672年などの茶会や茶道具の書物には、

  桃山時代以前の古い茶会の主役である高麗茶碗より、「信楽焼」「備前焼」「萩焼」「志野」

  「織部焼」黄瀬戸」「赤楽」「黒楽」などの各地の焼き物の登場回数が、断然多く記されて

  います。

3) 織部焼の特徴

 ? 緑色の呈色剤は酸化銅です。

  ?) 古代から中世にかけて緑色の釉が使われていますが、これは鉛を主成分とする釉に銅を

   呈色剤に用いる物でした。即ち、天然の黒鉛を焼いた鉛丹に、珪石を混ぜ更に酸化銅を添加

   して作る酸化鉛で、「鉛緑釉」と呼びます。

  ?) 織部釉は土灰釉に酸化銅を入れて作り、鉛は使いません。

    この釉が初めて登場したのは、発掘調査より16世紀初頭と判明しますが、織部の釉として

    使用されるのは、桃山時代以降になります。

 ? 「交趾(こうち)三彩」に付いて。

   注: 本来交趾は現在のベトナムを指しますが、焼き物では中国南部で作られた焼き物の

     総称です。

  ?) 16世紀後半に九州や近畿などの各地の豪商が、南蛮貿易に進出し、各種の商品が我が国

    にもたらされます。その中に緑、黄色、白、などの色を持つ多彩な焼き物(交趾三彩)が

    輸入され、新興勢力の商人や町人の間で、茶道具としてもてはやされます。

    注:交趾三彩は、中国明代〜清朝時代にかけて三彩を施した軟陶で、型物の香合等が有名

     です。

  ?) 交趾三彩とは別に、「呂宋(るそん)茶壷」も茶人の間で大変な人気を博し、貿易商人

    に莫大な富をもたらせます。

 ? 交趾三彩は我が国に大きな影響を与えます。

   黄色は「黄瀬戸」で白色は「志野」がありましたが、従来に無い華やかな緑色が必要になり

   ます。この様な社会状況の下、「銅緑釉」即ち織部釉が登場し、交趾三彩に負けない色彩が

   完成する事になります。

 ? 桃山時代は、町衆茶人の人口も増え、茶道具の需要も増えます。美濃以外の窯でも茶道具が

   作られますが、その中でも美濃は茶陶の中心的な産地に成ります。

   織部焼の作品は、都市生活者の高級食器類が多いですが、純然な日常の生活用品ではなく、

   茶会に於ける茶懐石の食器ととして生産され、使われた物です。それ故、装飾性に優れ、

   美的鑑賞に耐える美しさや、機能性など華やかさが求められます。

   尚、当時の日常食器は陶器ではなく、漆器(塗り物)が多かった様です。

4) 織部焼の作品。

以下次回に続きます。

焼き物の着物(色彩)53 中世の美濃窯 7(織部2)

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4) 織部焼の作品。

 ? 大量生産による制作。

  ?) 織部焼の代表的な窯である元屋敷窯には、九州唐津より技術移入された連房式登窯が築か

   れます。一度に沢山の作品を焼く量産に適する窯であり、発掘調査で14房の焼成室が確認

   されています。ここでは、都市生活者の要求に応じた作品が次々に焼かれています。

   注: 連房式登窯とは、山腹の傾斜に沿って地上にアーチ状の燃焼室が連なる構造の窯です。

  ?) 轆轤成形と型物成形。

   従来の様に、作品一個一個を手轆轤で作る方法も取られていますが、向付や鉢には、型作りの

   伝世品が多く存在しています。布目跡から型作りである事が判明します。

   a) 型作りによる生産。

    板状に伸ばした土(タタラ)を土型に押し込み、同じ形の作品を多数作る方法です。

    型離れを良くする為に、蚊帳などの布を型に嵌め、その上に軟らかい粘土を押し込み型通り

    の形に作ります。

   b) 一つの型から五客一組、又は二組程度の量(5〜10個)を生産する方法で、現在我々の

    感じる量産とはかなり違いがあります。これは、需要者の注文数に応じて、臨機応変に

    型を作ったと考えられています。それ故、型物とは言え、異なる多数の形が存在する事に

    成ります。

  ?) 専業陶工集団による近世的な生産システムに発展します。

    一つ又は複数個の窯を指導する指揮者が、生産を管理していたと思われています。

    即ち、注文を受けてから納品までの最終段階までの工程を監督指揮する立場の人(窯大将)

    で、生産技術や意匠(デザイン)、販路の開拓、運搬手段までも管理したと思われています

 ? 織部の種類

  ?) 青織部: 素地の一部に鉄絵が施され、要所要所に銅の緑釉が掛けられた焼き物です。

     全体に銅釉が掛かった物を「総織部」と呼びます。多くの場合、釉の下に印花、櫛目、

     線刻文、貼付などの彫刻的な装飾が施されています。     

  ?) 赤織部: 素地に赤土を選び、一部に白化粧土を施し更に鉄絵を付け物で、向付、皿、

     鉢、抹茶茶碗などが多いです。

  ?) 鳴海(なるみ)織部: 白土と赤土を適宜継ぎ合わせた陶板を作り、型に嵌め込み作品に

     成形します。白土部分には青釉を、赤土部分には白化粧土で模様を描き、更に鉄絵を

     施します。把手の付いた手鉢や、四方平鉢、扇面形蓋物、扇面形向付などがあります。

  ?) 織部黒、黒織部: 文様の無い黒一色の物を織部黒と呼びます。

     白い素地に黒釉を一部掛け残し、そこに鉄絵で文様を描いたり黒釉の一部を掻き落し

     文様を描いた物を黒織部と呼びます。

  ?) 織部唐津(美濃唐津): 織部を焼いた元屋敷窯や、高根窯で焼かれた絵唐津風の物で、

     少量であるが、向付、茶碗、四方鉢などがあります。

  ?) 志野織部: 志野と織部の中間的なもので、鉄絵を施し、長石単味の志野釉に更に灰を

     加え施釉したもので、登窯で焼いた為、緋(火)色が無く、志野と区別できない物も

     有ります。皿、鉢などの食器類が多いです。

 ? 著名な作品。

  ?) 織部松皮菱(まつかわびし)手鉢: 鳴海織部の傑作。 桃山〜江戸初期。型抜き成形。

     高さ 17.7cm、口径 24.1 X 26.8 cm。 四脚。

     王朝時代の文様(片輪車)を復活させた物で、太い把手(とって)が豪快に付いています

  ?) 織部葦鷺文切落(あしさぎもんきりおとし)手鉢: 型作りの布目跡と重ね焼の目跡あり

     高さ 18.4cm、口径 19.1 X 21.6cm。 四脚    

     箱書に「織部焼」と「貞享5年(1688年)」の文字があり、織部焼の名称が始めて登場

     した物です。

  ?) 重要文化財 織部四方(よほう)平鉢 : 著名な作品で、かって芥川龍之介が所蔵

     していた物です。 高さ 6.3cm、口径 20.6 X 21.3cm。 四脚 

     上下方向が問題になる事もあります。一般に織部の緑釉側を下にした写真が多いですが、

     上下が逆の場合もあります。 縁の中央に把手の取れた跡があります。

     鼠色の地に5個の二重の四角が鬼板で描かれ、二重線による棒状の物が織部側に伸び

     ています。

   ?) 黒織部菊文茶碗: 平瀬家から藤田家に伝来の筒茶碗です。

     高さ 9.1cm、口径 10.7cm、 高台径 5.1cm。 

     胴に三角の黒釉の掛け残しを設け、そこに鉄絵で菊の折枝文が描かれています。

   ?) 織部片輪車文沓形(かたわぐるまもんくつがた)茶碗 : 銘 山路

     高さ 6.0 〜 6.7cm、口径 9.5 〜 13.5cm 、 高台径 5.8cm。

     四方に広がる口縁部に緑釉が掛かり、素地の赤味と緑釉の調和が見事な沓茶碗です。

     片輪車とは平安貴族の牛車の車輪の片側の事です。

   ?) 織部四方蓋物: 織部には蓋物の作品も多いです。

     高さ 11.3cm、口径 17.0〜18.6cm、 二脚

     緑釉が対角線に斜めに掛けられ、その中央に大小二隻の帆掛舟が描かれています。

     内部に12個の目跡があり、重ね焼きした跡です。

   ?) その他: 

    a) 向付には筒状の物と、皿状(鉢状)の物があります。

     形は多種多様で、扇面形、千鳥形、船形などが代表的なもので、いずれも土型を利用して

     います。

    b) 水注(すいちゅう): 轆轤挽きの作品で、真上に把手がある水注ぎで、大小様々

     です。鬼板で亀甲文や、橋文んどの絵付けされています。

    c) 徳利類:轆轤挽きによる作品で、当時流行の秋草文や水草文等の植物文が描かれて

     います。高さが24.6cm、胴径が18cm以上の大徳利もあります。

    d)その他、香炉、香合、燭台、水指、茶入、花生、振出(小さい菓子を入れる菓子器)

     などがあります。

以下次回に続きます。
      

焼き物の着物(色彩)54 中世の備前焼 1

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備前焼は現在でも大変人気があり、全国に知られた焼き物です。

伊部(いんべ)焼とも呼ばれ、岡山県備前市伊部が故郷(ふるさと)で一千年の歴史を有する窯業の

中心地として栄えます。伊部は旧山陽道沿(現、国道二号線)の小さな町ですが、交通の便が良く

焼き物は陸路、海路、河川を通じて全国に運ばれていました。

1) 備前焼の特徴

 ? 須恵器(すえき)の系統を引く無釉の焼締陶器です。

  a) 3世紀の頃、朝鮮より須恵器の技法が伝わります。それ以前の土師器(朱色の素焼の軟陶)

   と異なり、硬く焼き締まり水を通さない丈夫ば焼き物です。須恵器はたちまち全国の窯場に

   伝わり各地で作られる様になります。備前の須恵器は他の窯場と異なり、色彩が明るく白に

   近い灰色が特徴です。最盛期は6世紀前半との事です。

  b) これらの焼き物は奈良〜平安時代に掛け、主に朝廷用に作られ貢物や貴族、神社仏閣、

   荘園などへ販売されていました。

   平安末期になると、武士階級の台頭と伴に、朝廷の権力が弱くなり、又、荘園貴族の収入が

   減り需要が減退します。又、朝廷への貢物も無くなり、付近の民衆の生活用品を多く

   焼く様になります。

  c) 工人達の移動。朝廷への貢物を焼く工人達の特権も失われていきます。

   (一定の焼き物を朝廷に納めると、80日間の労働が免除されたそうです。)

   同時期、国府が岡山から邑久(おく)郡福岡に移り、国道も伊部を通る様になります。

   須恵器作りの工人は、伊部の西北の熊山方面に移動し、窯を築きます。

   ここには、焼き物に適した土や、燃料になる赤松が豊富に存在していました。

   作品は、発掘調査でも、大瓶(おおがめ)、壷、擂鉢(すりばち)の三点のみが確認できます

   ・ 備前の大瓶は水瓶、酒瓶、藍瓶(染色用)として使用されていました。二石(こく)

     入り、三石入りの物が多く、容積が表示されるのは室町時代以降になります。

   ・ 壷の肩には耳は無く、直線文の櫛目文様があります。

  d) 土は粘着力の少ない山土を使い、制作方法は、胴を2〜3段に継ぎ合わせていますので、

    紐作りによる轆轤挽きと思われています。口は太い玉縁で、肩一面に暗緑色の胡麻が掛

    かった物や、玉だれの様に筋となって流れ落ちている物が多いです。

  e) 還元焼成から酸化焼成へ。

   鎌倉時代になると、須恵器は原則還元焼成で行いますが、次第に明るい赤褐色の肌が好まれる

   様にまります。その為にも窯を急勾配にし燃焼力を強くして、酸化炎を作り出す必要があり

   ました。備前焼では早くから半地上式の鉄砲窯が使われています。

   注: 鉄砲窯とは、山の傾斜地に長い溝を掘り、左右両側から土を盛り上げ、天井を作り、

    内部に支柱を設けた半地上式の窯で、側面に差木孔(薪を投入する穴)が並んでいます。

    この窯は窖窯(あながま)より湿度が少なく、燃料の節約にも成りました。

    尚、山頂に築かれた窯の方が、山腹の窯より時代が古いと言われています。

 ? 室町時代の備前焼。

  ?) 室町初期〜中期(南北朝)の時代。

   熊山の頂や山腹に窯を築いた工人達は、生活の便利差を求め、次第に山里に下りてきます。

   最初に発見された窯址が、備前市浦伊部の釜屋敷です。ここは伊部の片上湾の近辺です。

   又、伊部の南方の西大平山や、東大平山の谷合の下山山麓に散在しています。これを山麓窯と

   いいます。

  ?) 戦国時代。戦乱が相次ぎ生活も不安定になるに従い、全体に粗雑な作品が多くなりますが

    らっきょ徳利や油壷など新しい形の製品も登場します。

    注目すべき事は、足利八代将軍義正(銀閣寺を建立)の頃、奈良称名寺の村田珠光が当時

    流行していた、書院茶に対し「侘び、寂び」を尊ぶ草庵茶を提唱し、共鳴者が増加して行き

    ます。
 
以下次回に続きます。

焼き物の着物(色彩)55 古備前 2

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2) 備前焼と茶陶の関係。

 室町中期の茶人村田珠光(じゅこう。1423〜1502年))により提唱された「焼締陶を茶陶として

 用いる事」は、当時の書院風茶より、草庵茶に変化を与える切っ掛けになります。

 その考えは、やがて武野紹鷗(じょうおう。1502〜1555年)や千利休、小堀遠州に引き継がれる

 事になります。

 ? 当時、中国の宋や元などから渡来した、青磁や天目などの施釉陶が使われていた、書院風の

  「茶の湯」の世界で、焼締陶の持つ質感は「冷え枯れ」と評され、茶の世界に持ち込みます。

  但し、焼締陶は備前以外に信楽焼や伊賀焼にもあり、茶道具として用いられています。

 ? 村田珠光の時代には、水指、建水、花生などが使用され、焼締の茶碗が使われる様になるのは

   武野紹鷗以降になります。珠光達が取り上げたのは、必ずしも茶道具として作られた物では

   なく、種壷、小甕、徳利の類です。

   紹鷗愛用と伝えられている備前水指 銘青海(室町時代、大窯以前、徳川美術館蔵)は、明ら

   かに水指として作られた物です。備前焼が茶会に使われた事を記載したのは、「天王寺屋

   会記」(1549年)に「水こぼし ヒセン物」とあります。「ヒセン物」が備前焼を指して

   います。 備前水指 青海:高さ 18.2cm、口径 18.2cm、底径 14.0cm  

 ? やがて茶器用に作られた、多くの種類の備前焼の器が使われる様になります。

   当時の茶会記録によると、茶入、茶碗、香合、蓋置、徳利なども使われています。

   茶陶として最初に焼かれたのは、1557年銘のある備前焼筒花生のころと思われています。

 ? 豊臣秀吉は備前好みで有名です。京都北野の大茶会(1594年)では、天下の名器と共に

   備前焼の花生や面桶(めんつう)が飾られた事が記録に残っています。

    注: 面桶とは紹鴎、利休の好みで作られた曲物形をした建水の事です。

   当時の備前焼の茶陶の価値は、現在の我々の想像出来ない程の高価な物でした。

3) 桃山様式による備前焼。

  桃山時代は古備前の黄金期とも言われています。当時の優れた茶人の影響を受け、茶の湯に

  欠かせない焼き物になります。

  ? 熱心な京都の茶人さえ、伊部を訪れ茶陶の指導を行ったり、型紙を送り自分好みの茶陶を

    注文する人も現れます。この中から名物として世に出た物もあります。

    利休の弟子の山上宋二は「茶器名物集」に天下の名物を記録しています。

  ? 伊部手の登場。桃山時代に初期伊部手の備前焼が登場してきます。

   ?) 伊部手とは、作品の表面に肌理の細かい土を塗り、肌に光沢を与えて桃山好みの備前焼

     に仕上げる方法です。作品は肉薄の物が多い様です。

   ?) 室町末期より、器の内側に塗り、水漏れ防止を目的に使われていました。

     土を塗ることで、黒っぽい光沢のある肌になります。特に後に細工物(さいくもの)と

     呼ばれる、手作りの獅子、布袋(ほてい)などの置物や香炉等に塗り、匣鉢(さや)に

     納めて焼くと、銅製品の様になりますので、盛んに行われています。

     但し、茶陶に使用すると、時代を反映した綺麗な作品に成りますが、備前らしさが無く

     雅味が無くなると言う人もいます。   

   ?) この土は、伊部の近くの長船(おさふね)、畠花(はたけだ)で取れる鉄分の多い

     目の細かい土で、更に水簸(すいひ)し水に解いて塗り、乾燥焼成すると鉄分と長石が

     熱反応し釉化が起こり、光沢が出ると言われています。

     尚、この土は、備前長船の刀鍛冶が刀に「におい」を付ける為に使用するものです。

以下次回に続きます。  
          

焼き物の着物(色彩)56 古備前 3

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4) 備前の土と窯

 ? 備前の土: 山土(やまつち)と田土(たつち)

   備前焼の命は、土の良さにあります。備前焼中興の祖と言われる、人間国宝の金重陶陽が

   「米より土が大事」と土を噛んで吟味したのは、有名なエピソードです。

  ?) 山土は室町後期に窯が、熊山、釜屋敷などの高地より、山麓に降りて来る以前に使われ

    ていた土です。伊部周辺の熊山山系から採掘した、火山岩の流紋岩(石英粗面岩)が風化、

    崩壊した土で、耐火度が高く、粒子が田土より粗い一次粘土で、焼損も少ない土です。

    初期の備前では、須恵器で使われた山土と同程度の精製度で、単味で使用したと見なされて

    います。土の伸びが悪い為、轆轤成形が難しく、紐造りによる轆轤成形になります。

    古備前の魅力は、この山土を使い窖窯(あながま)で焼成する事こそ出来ると言う人も

    多いです。

  ?) 田土(ヒヨセとも言います): 伊部の田圃の下3〜5mの場所にあり、冬場などの

     農閑期に掘り出した土です。

    上記一次粘土が、数万年の歳月を掛けて、風化、崩壊して雨水に洗われて川に流出し、

    低地に溜まった黒色の二次粘土(堆積粘土)です。粘土以外の有機物や、鉄分、砂も一緒に

    含んでいるのが特徴です。これを水簸(すいひ)して使います。

   a) 当然採取した場所によって、粘土の品質に差がありますが、一般に肌理が細かく粘りが

     あり、轆轤成形がし易い土で、山土の様に紐造りでは無く、一本挽きと言う技法で轆轤

     水挽きで作陶する様になります。

   b)  現代の茶褐色の備前焼も田土を基本にし、数種の鉄分を含む土(山土、黒土)を混ぜて

     使っているとの事です。 最高の田土は「観音(かんのん)土」と呼ばれた土でしたが、

     掘り尽くされ新たには入手困難との事です。「観音土」は緋襷(ひだすき)の発色の

     良い土です。田土のみで焼成すると、温か味のある白い地肌に成ります。

   c) 山陽新幹線の工事現場より、大量の田土が掘り出せれ、そのストックしたもので制作

     している作家も居るとの事です。(粘土は寝かせれば寝かす程良いとされています。

     金重陶陽は10年寝かせた土を使っていたとされています)。

 ? 古備前の窯。熊山の稜線部に築かれた頃から、桃山時代までの間にそれぞれの窯と、焼成

   技術があったとされています。研究者によれば、次の?期に分類されるそうです。

  ?期: 平安末期〜鎌倉初頭。

   須恵器と同様に還元焼成による、燻焼(くすべやき)で、山麓に窯を築いています。

  ?期: 鎌倉中期。

   中性焔による焼成で、山腹又は山麓に分布していました。

  ?期: 鎌倉後期。

   中性焔又は酸化焔で焼成。山の中腹から高地まで分布しています。 壷、擂鉢(すりばち)、

   甕の生産が確立します。この時期まで山土が使われていたと思われます。

   以後田土が使われる様になります。

  ?期: 南北朝〜室町時代。

   大窯胎動の時期です。四耳壷(しじこ)、片口鉢が出現します。

  ?期: 室町末期〜江戸初期。

   大窯での生産の開始。茶陶の生産が始まる。その他の器の種類も増えます。

 ? 窯の構造と古備前の焼肌。

  ?) 古備前の焼成は、基本的には窖窯(あながま)で、時代と共に次第に大型化してゆきます

   大窯でも、分焔柱を付けた物に過ぎません。

  ?) 古備前が年代によって焼肌が変化するは、原材料の粘土の変化や、窯の焚き方、窯詰

    方法の変化に起因する事が多いです。

  ?) 鎌倉時代の途中より、それまで須恵器の還元焼成による灰色の焼肌が、中性、酸化焔に

    よる焼成で、備前独特の赤褐色の焼肌に変化して行きます。

 ? 大窯に付いて。

以下次回に続きます。


焼き物の着物(色彩)57 古備前 4

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4) 備前の土と窯

 ? 備前大窯に付いて。

  ?) 室町時代末期の頃から、個人用の小さな窯から、共同の大窯を用いる様になります。

    備前の窯元達は、組合を組織し従来の鉄砲窯を更に長大化した、大窯を共同使用する様に

    します。共同窯の発生と共に、窯元六姓と呼ばれる人々が窯を管理し、それ以外の者は

    窯元には成れませんでした。大正時代まで続いた制度との事です。

     注: 窯元六姓とは、木村、森、寺見、金重、頓宮(とんぐう)、大饗(おおあい)の

      六家で、この地方の名門でもあります。尚、現在でも存在している窯元は、木村、

      金重、森の三軒のみです。

  ?) 三大窯址: 桃山時代から江戸時代を通じて、伊部周辺には南大窯、北大窯、西大窯の

    大窯が各一基存在し、多くの備前焼はこの窯群によって焼成されたと言われています。

    但し、何度も作り変えてた為、窯跡は各々数箇所存在します。

   a) 伊部南大窯跡: 1959(昭和34)年、国の史跡に指定されています。

     伊部駅の南約200mの榧原山(かやはらやま)北麓にありまります。

     昭和26年以降、数度の発掘調査を経て窯の全容が明らかになります。

     ・ 室町末期〜桃山時代の窯(中央窯): 長さ 31.6m、幅 2.3m

     ・ 江戸初期〜中期の窯(西窯): 長さ 49.1m、 幅 2.8m

     ・ 江戸中期〜末期の窯(東窯): 長さ 54.5m、 幅 5.1m

   b) 伊部西大窯跡: 2009(平成21)年 伊部北大窯跡と共に、備前市の史跡指定より、

     国の指定に追加指定され、備前陶器窯跡と名称が変更に成りました。

     伊部駅の北西約600メートルの医王山東麓にあります。

     三基の窯跡が確認され、最大の窯は 全長 約40m、幅 約4mです。

   c) 伊部北大窯跡: 伊部駅の北約300mの不老山南麓、忌部神社の周囲に位置します。

     現在、四基の窯跡が確認されています。内1基は桃山時代に築かれたと思われ、

     長さ 約45m、幅 4.7m程の窯です。

     他の三基は忌部神社の北西斜面に平行して築かれています。

     最も北西の窯は 長さ 約47m、幅 5.4mと確認されています。

  ?) 大窯での焼成。

   a) 作品: これらの大窯では、主に、壷や甕、徳利、擂鉢などの日用雑貨類が焼かれ、

    その他に大甕や茶道具などが焼かれています。

   b) 焼く量: 窯が大きい為、一度の焼成で、数千個〜数万個が焼成されていました。

     その為、窯を焚く回数は、年に一度程度ではないかと言われています。

   c) 焼成日数: 40〜50日かけてゆっくり焼いた物と考えられています。

     尚、窯出しまでには、同じ程度の日数を掛けて、窯を冷却する必要があります。

  ?) 大窯の終焉。

   江戸後期の天保年間(1830年〜1843年)に天保窯と呼ばれる小型で効率の良い融通窯が

   出来ると、大窯は衰退し幕末に終焉を迎える事に成ります。

    注: 天保窯とは伊部の登り窯の事で、5〜7の焼成室を持ち、十日程度で焼成可能な

     窯です。

   a) 江戸中期以降になると、各地方の窯場で陶器が焼かれる様になり、備前焼の販売は次第に

    減少します。大窯は経費が掛かる上、藩の保護も減少した為、効率が良く小回りの利く

    小型の窯が求められます。藩に小型窯の築窯を数度要請し、天保年間(1830年〜1843年)に

    小型で効率の良い融通窯が、不老山の山麓の北大窯跡の下方の三ヵ所に築かれます。

    この窯は数度の修理を施しながら、1940(昭和15)年まで使われていました。

   b) 京都の登り窯を模した窯です。

    京都では江戸初期に粟田で最初の登窯が築かれ、焼成される様になります。

    登り窯の特徴は、熱効率が良い事です。窯は緩やかな階段状に作られ、下から順番に焼成

    していきます。各小室(房)で使われた廃熱は次の小室の余熱として利用できます。

    それ故、経済的で短期間の焼成が可能になります。更に、各小室は独立しており、各々の

    小室で酸化又は還元焼成が可能になります。

 5) 備前焼の作品

 以下次回に続きます。 

焼き物の着物(色彩)58 古備前 5

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5) 備前焼の作品

  中世に於いては全国の窯場で甕、壷、擂鉢の三種を中心に製作されています。

  備前でも同様な傾向ですが、これらは、時代の影響が少なく、胴の膨らみや口縁部の形状の変化

  など、若干の変化はある物の、どの時代であっても、大差ない形状になっています。

  16世紀に入ると各種の食器類や茶道具が焼かれる様になります。

  茶道具類は、時代の変化に対応して、形や嗜好が変化します。

  天正、文禄、慶長、元和になると、桃山形式といわれる茶道具の焼き物を作る様になります。

 ? 特注品としての備前の茶道具。多くの茶道具は注文品として製作されています。

  ?) 花生について

   a) 中国の青磁を模した花瓶を製作。

    伊部(いんべ)周辺の寺へ、中国の天竜寺青磁の大花瓶を、模した花瓶が奉納され、

    「奉寄進横尾山永正九六月日 伊部 木村三郎衛門」の銘文があります。 

    これは特別注文品です。その他、青磁算木花生(高さ46.2cm)の模倣品に備前算木花生

    (高さ24.0cm)などが著名です。

   b) 筒形花生: 室町後期の永正、永禄の頃には、寺院から特別注文で中国風ではない筒形の

     花生が作られています。この形は、中国風の花瓶の写しや模倣から、和様化が行われ、

     桃山時代の先駆けと言える形状の作品です。

   c) 筒形や旅枕形の花生も、次第にデフォルメが加えられ、耳なども付けられ、桃山様式の

     花生が作られる様になります。

    ・ 備前耳付花生 銘 福耳: 高さ 26.0cm、口径 14.2cm、底径 17.0cm

      口縁は、内にすぼめた姥口(うばくち)状で、肩の左右にゆったりとした垂れた耳が

      付けられています。赤く焼き上がった部分と、焦げて灰黒色に窯変した部分の対比が

      鮮やかです。胴の縦や横に箆(へら)目が入っています。

    ・ 備前花生 銘 宮柱: 高さ 25.0cm、口径 143.8cm、底径 13.1cm

    ・ 備前耳付花生 銘 太郎: 高さ 25.6cm、口径 10.6〜13.7cm、底径 12.7〜13.7cm

    桃山様式とも言える歪(ひずみ)と箆目を駆使し豊かな表情を表しています。

    これらは、いずれも「掛花生」として用いられた物で、小さな穴が開いています。

   d) 江戸時代に入ると、桃山様式の物は無くなり、再び古銅や青磁の中国写しの花生に戻って

    しまいます。

  ?) 水指について。

    水指は茶陶器の代表的な焼き物ですので、桃山期を中心に名作の伝来品が多いです。

    最初に水指として作られた時期は、いまいちはっきりしません。鬼水指と呼ばれる水指も

    雑器からの転用と見る人もいます。

   a) 備前一重口水指: 東京博物館蔵 高さ 15.6cm、口径 17.7〜22.0cm、底径 18.5cm

     轆轤挽きされた桶形の水指で、塗り土の伊部手と呼ばれる作品です。

     この水指は水指として作られたと思われています。

   b) 矢筈口(やはずくち)形水指: 備前水指を象徴する器形です。

     注: 矢筈とは、矢の末端の弓の弦(つる)を受ける部分の事です。

    ・ 備前矢筈口耳付水指 銘 巌松(がんしょう):元紀州徳川家伝来で、大振りの水指です

      通高 20.0cm、口径 18.5cm、底径 20.3cm

    ・ 備前矢筈口耳付水指 銘 小倉山: 胴裾を高台風に深く切り込んだ、珍しい形です。

      通高 15.5cm、口径 17.9cm、底径 16.1cm

    c) 緋襷(ひだすき)の水指: 数は少なく、作為的な物ではなく、素直な轆轤挽きの

      作品です。

     ・ 重要文化財 備前緋襷水指: 畠山美術館蔵。最も有名な緋襷水指です。

       高 13.0cm、口径 10.0〜13.0cm、底径 10.7cm

     ・ 備前緋襷棒先(ぼうのさき)水指: 高 13.8cm、口径 15.2cm、底径 10.0cm

     ・ 備前緋襷耳付水指: 高 16.3cm、口径 15.9cm、底径 9.1cm

    d) その他の水指:桃山〜江戸時代に掛けて、変化に富んだ器形の水指が登場します。

      烏帽子箱形、菱形、瓢形、三角、六角、四方釣瓶、逆瓢、輪花、半月、砂金袋などです

以下次回に続きます。

焼き物の着物(色彩)59 古備前 6

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5) 備前焼の作品(前回の続きです。)

 ? 特注品としての備前の茶道具。多くの茶道具は注文品として製作されています。

  ?) 茶壷(葉茶壷)に付いて。

   15世紀より焼かれていた茶壷は、室町時代には茶道具の中でも、最も重要な器とされて

   いました。茶壷も時代と共に形が変化して行きます。

   桃山時代に流行したのは、いわゆる呂宋(ルソン)茶壷の形を模倣した物です。

    注: 呂宋茶壷とは、フィリピンのルソン経由でもたらされた物で、茶壷の中でも重要視

     されて「島物」と呼ばれていました。更に、呂宋壷の中で文字・紋様の無いものを

     「真壺」(まつぼ)と呼んでいます。

   肩の四方に耳を付け、高さも20〜30cm以上のものもあります。

   ・ 備前緋襷(ひだすき)四耳茶壷: 中世備前焼の壷様式の代表として著名です。

     高 30.3cm、口径 12.0cm、底径 13.6cm

   ・ 利休所持の「柴の庵」の銘のある当時著名な茶壷ですが、現在行方がわかりません。

   尚、江戸時代の野々村仁清には、国宝及び数個の重要文化財の茶壷が存在します。

   後日色絵の項でお話出来ればと思っています。

  ?) 茶入: 抹茶を入れる容器です。陶製の物が多く、色々な形があります。

   唐物と瀬戸焼きの茶入が主流で著名な物が多いです。唐物は和物より上位に位置し、次いで

   瀬戸焼が重宝され、備前など、瀬戸以外は国焼きとして格下の器でした。

   備前焼きの茶入としては以下の物があります。

   ・ 備前茶入 銘 布袋(ほてい): 中興名物 利休所持と伝えられています。

     高 7.6cm、口径 3.0cm、底径 3.6cm

   ・ 備前茶入 銘 走井(はしりい): 江戸時代の茶人 松平不昧公 旧蔵。 

     唐物の丸壷茶入を模倣した物。 高 5.9cm、口径 2.7cm、底径 3.3cm

   ・ 備前緋襷肩衝(かたつき)茶入 銘 福神(ふくのかみ): 不昧公の箱書があります。

     高 6.9cm、口径 3.4cm、底径 4.5cm

   ・ 備前肩衝茶入 銘 さび助 : 古田織部 旧蔵。

     高 7.4cm、口径 4.0cm、底径 4.5cm

  ?) 抹茶々碗に付いて。

    無釉の焼締陶である備前焼きの茶碗の数は少ない様です。    

   ・ 備前沓(くつ)茶碗 銘 只今(ただいま): 岡山県後楽園事務所 蔵。

     高 9.6cm、口径 12.8〜15.1cm、高台径 7.8cm

  ?) 皿と鉢に付いて。

   a) 備前焼の中で花生や水指に引けをとらない作品に、「透彫鉢」があります。

     特別注文と思われる作品です。

    ・ 備前透彫鉢: 伝世の備前焼食器の中で白眉とも言える逸品です。

     高 10.5cm、口径 25.3〜29.00cm、底径 21.0cm

     ほぼ垂直に立ち上がった側面に千鳥、河骨(こうほね=植物名)、菖蒲葉など14種類の

     文様が透彫りされたものです。底には四箇所に小さな脚が付けられています。

     見込みには七つの円形の「牡丹餅(ぼたもち)」があります。

   b) 備前手鉢: 美濃窯でも多くの手鉢が作られていますが、美濃(織部)の手鉢が装飾性に

      富んでいるのに対し、備前焼では、形のおおらかさと、焼き上がりの景色に特徴が

      あります。作品はいずれも一品製作と思われます。

    ・ 備前半月形手鉢: 半月形の皿に弓形の把手が付けられた、備前の代表的な形の作品で

      見込みに大小の抜けを付け、自然と人為的要素が装飾効果を増しています。

       高 7.6cm、口径 3.0cm、底径 3.6cm

    ・ 備前透文手鉢: 桃山〜江戸初期に多い作品です。

      口縁の周囲に銀杏(ぎんなん)、扇面、菊文の透彫があり、見込みには徳利を置いたと

      思われる六個の「牡丹餅」がある、梅鉢文風の作品です。把手と口縁部に胡麻(ごま)

      が降り掛かっています。
   
       高 14.5cm、口径 21.5 〜23.2 cm、底径 15.3cm

   c) 大皿に付いて。 桃山期に於いて、最も大きな作品が焼かれていました。

     腰の強い土が、轆轤挽きを可能にしたと思われます。

    ・ 備前緋襷大皿: 16 〜 17世紀 備前大皿の伝世品の中で最も美しい。藤田美術館蔵

      鉢形に近い深皿で、口縁は丸く内側に捻り返され、平底に成っています。

      緋襷は特に外側が美しい作品です。

       高 9.1cm、口径 47.0cm、底径 27.0cm

    ・ 備前緋襷大皿:  16 〜 17世紀 岡山県立博物館蔵。

      海揚り(後日説明します)で10点ほど引き揚げられた中の一品です。

      重ね焼きによる緋襷が素晴らしく、最優品の大皿です。底の裏には塗り土が施され、

      テーブル等を傷つけない配慮がされています。

       高 9.0cm、口径 50.5cm、底径 26.5 〜 27.6cm 

  ?) 徳利に付いて。

以下次回に続きます。

焼き物の着物(色彩)60 古備前 7

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5) 備前焼の作品(前回の続きです。)

 ? 特注品としての備前の茶道具。

  ?) 徳利に付いて。

   a) 桃山時代の徳利の生産は、断然備前焼の物が多いです。徳利は室町後期頃から、轆轤挽き

    製法で作られ、焼かれていた物と思われています。

    「詫び茶の世界では備前徳利」と言われる程、重要視されていました。

    但し、必ずしも最初から徳利として作られた物とは限らず、雑器として作られた物を懐石

    料理用の徳利として見立てた物も多いです。備前の徳利は名品として、割合多く残って

    います。

    種類も多く、俗に芋(いも)徳利、御預(おあずけ)徳利、蕪(かぶら、又は船)徳利、

    鶴首徳利、瓢(ひさご)形徳利、辣韮(らっきょ)徳利、小徳利(振出)、大徳利など

    豊富にあります。

  b) 備前徳利の名品。

  ・ 備前徳利 銘 五郎: 畠山記念館蔵。

    備前の徳利に多い形です。即ち、口は外に開き肩を付け、胴裾はやや張った形です。

    この徳利は、数多い徳利の中でも、土肌の軟らかさと変化のある景色は格段に優れています

      高 13.0cm、 口径 3.0cm、 底径 6.5cm

  ・ 備前緋襷徳利 銘 村雨: 畠山記念館蔵。

    肩が張り胴はふっくらと丸みを帯び、頸がやや傾いています。景色も豊かで作行きも優れて

    います。高 11.5cm、 口径 3.0cm、 底径 5.5cm

  ・ 備前緋襷徳利 銘 雪月花之友: 藤田家伝来。 御預け徳利として理想的な大きさです。

    撫肩の美しい曲線は胴から腰に伸び、裾は強く絞られています。口頸部は小振りで手取りも

    軽く出来ています。鮮烈な赤い緋襷が肩から胴に掛かっています。

      高 14.5cm、 口径 3.2cm、 底径 6.4cm

  ・ 備前徳利 銘 年わすれ: 胴から頸、口縁の曲線美は見事な轆轤挽きされています。

      高 15.8cm、 口径 3.9cm、 底径 5.5cm

  ・ 備前緋襷鶴首徳利(緋襷大徳利): 16 〜 17世紀 根津美術館蔵。

     長く伸びた頸が傾いています。意図的なものか、窯の中で偶然そうなったかは不明ですが

     この事が逆に作品の美しさを引き出しているとも言われています。

      高 29.7cm、 口径 4.7cm、 胴径 21.2cm 底径 19.4cm

  ・ 備前瓢形徳利: 16 〜 17世紀 

    瓢(ひさご)形の徳利は、明の赤絵や古九谷に見られる形です。備前でも桃山以降かなりの

    量が生産されています。高 21.5cm、口径 3.4cm、胴径 10.9cm 底径 9.6cm

  ・ 備前蕪(かぶら)徳利: 船徳利と言われる形です。底を広く取り船が揺れても、安定な

    形をしているからです。時代が下がるに従い、平形に変化して行きます。

    又、渋徳利とも言われ、柿渋を入れる容器と使用されたいた為の命名です。

    多くは徳利の上部に別の容器を逆さにして被せて焼いた被せ焼きで、被せて有る部分には、

    灰が掛かかりませんし、くっ付き防止の為、被せる部分に藁を巻いた為、この部分が緋色

    (緋襷)に成っています。高 21.2cm、口径 3.3cm、底径 8.3cm

  ・ 辣韮(らっきょ)徳利: 備前焼では一番古い形と言われています。

    寸法が手頃な事と、素朴な形の為、桃山時代の茶人には花生として使う人も多いです。

  ?) その他の作品。

   a) 備前の建水(けんすい)は「和物建水」の中で最も愛用された焼き物です。桃山〜江戸

     時代に掛け、主な茶会には100回以上登場する事が、主要な茶会記に書かれています。

   ・ 備前建水: 厚手に轆轤挽きされた素直な筒形の建水です。胴部には太い轆轤目が残って

     います。 高 10.5cm、口径 11.2cm、底径 10.5cm

   ・ 備前建水: 口の広い胴が張った小さな壷、俗に茅壷(かやつぼ)と呼ばれる物ですが、

     現在では、建水に使われている物です。高 7.6cm、口径 9.3cm、底径 8.9cm

  b) 香炉: 伊部の田土は粘りがあり、彫塑的な美術工芸品とも言える香炉に、向いた土と

     いえます。桃山から江戸時代には、細工物と呼ばれる香炉や置物が作られています。

   ・ 備前獅子香炉: 精巧な仕上げで、技術的な細工物と呼ばれます。

     通高 14.6cm、幅 14.2cm。

   ・ 備前鶏香炉: 江戸時代に入ると、茶陶の生産に替り、細工物が主流を成す様になります

     塗土を施した伊部手で、雄鶏が首を伸ばして時を告げている状態を表しています。

     この香炉は全ての香炉の代表的な作品です。:高 21.7cm。

  c) 御庭焼(後楽園焼):岡山後楽園で焼かれた、色絵備前又は彩色備前と呼ばれる物で、

    正徳年間(1711 〜 1716年)に始まったと言われ、大黒天や獅子、山鳥などの置物が作られ

    ています。

  d) その他の作品として、向付、銚子、汁注、桶(手付桶)等があります。

    詳細は省略します。

以下次回に続きます。
    

焼き物の着物(色彩)61 古備前 8

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6) 備前焼の着物。

  無釉の焼締陶である備前焼では、ある程度は窯詰めの仕方や焼成方法によって、焼き上げる

  作品の模様を意図的に作る事は可能ですが、基本的には、「窯を開けて見なければ解からない」

  のが実態です。

  備前焼では、焼成方法の違いにより、備前手(窯変手)と伊部手及び緋襷(ひだすき)と呼

  ばれる技法が存在します。

 ? 備前手(近年窯変手と呼ばれています): 古備前と呼ぶ場合、この手の焼き物を指すのが

   一般的です。その特徴は以下の通りです。

  ?) 手捻りや轆轤挽きで成形した物をそのまま裸で窯に入れ、薪を燃やし高い温度の焔に晒す

    方法で、薪の灰が降り注ぎ、熔けて景色になる技法です。

  ?) 備前の土は、「赤でき」と呼ばれる茶褐色の焼肌と成りますが、松の薪の灰や燠

    (おき=燃え尽きていない薪)が作用して、多様な素地肌に成ります。

  ?) 窯の中を熟知している人では、何処にどの様な作品を置けば、どの様に焼き上げるのかが

    ある程度予想する事が可能ですので、焼成する事以上に窯詰めが大切な作業になります。

  ?) 備前手の種類。

   a) 胡麻(ごま): 薪の松灰が自然に降り注ぎ、熔けて胡麻状の点々が出来たものです。

    イ) 胡麻には青胡麻と黄胡麻、かせ胡麻(榎肌)があります。

     窯の構造や湿度の差によって、時代毎に変化しています。

    ・ 青胡麻は平安〜桃山時代に多く、暗緑色のもので、完全に熔けています。

    ・ 黄胡麻は江戸時代に多く、江戸末期以降は茶色が多いです。

    ・ かせ胡麻(榎肌)は、降掛かった灰が火力が弱く、熔け切らずにそのまま残った状態で

      艶が無く、かさかさした肌になります。あたかも榎(えのき)の樹肌の様な感じです。

      茶人の間では、この手の物が、特に珍重されています。

    ・ 胡麻禿(はげ): 長い年月がたつと、灰が剥がれ落ち、その下地の青く焼締まった

      土肌が出現する場合があります。これも茶人らによって珍重された景色になります。

    ロ) 胡麻が出易い場所は、火の焚口近くで灰が多く降り掛かる棚が良いと言われています

     かせ胡麻の場合には、焚口より遠い場所が良く、胡麻の量も少なく火力も弱い為この様な

     場所が適しているとも言われています。

    ハ) 一説によると、樹齢三十年の赤松の木が良いと言われています。

    ニ) 現在では「付け胡麻」と言われる人為的な胡麻があります。

     即ち、窯に入れる前に、松灰を振り掛けてから窯詰めする方法です。

     但し、専門家が見ると、自然か人為的かの判別は可能との事です。自然の物は火の勢いで

     吹きつけられ、力強い形状の胡麻ですが、人為的な物にはその力強さが無いとの事です。

   b) 桟切(さんぎり): 薪が炭になった状態の場所では、還元が強く現れ、赤い素地に

     ならず、素地の鉄分が暗灰色(鼠色、ねずみいろ)になった物をいいます。

    イ) 但し、肌が一様に鼠色に成らずに、赤地に鼠色が付いた物、又逆に鼠色地に赤が

     付いた物、更には中央が赤で周囲が鼠色に成った物など、色々なパターンがあります。

    ロ) 薪のみでの焼成で桟切を出すのはむ難しく、現在では炭を用いて人工的に行っている

      との事です。その方法は、火を止める直前に、焼けた木炭を大量に窯に入れ、作品を

      覆う様にするそうです。

   c) 玉垂(たまだれ): 灰が多く掛かり火力が強いと、器の表面を流れ落ち、ガラス状の

     玉に成ります。火力や窯の雰囲気によって、赤、灰色、緑色の玉垂が出現します。

   d) 青備前: 備前焼は酸化焼成を基本にしますが、窯詰めの位置や焼成の仕方、焔の当たり

     具合によっては、一部還元焼成になる場合もあります。この様な場所に置かれた作品は

     上品な青灰色になり、これを「天然青、自然青」と呼んでいます。

     尚、現代では、人工的に作られた「食塩青」と言う物があります。明治時代に開発された

     方法で、これは、食塩を作品に入れ状態で、伏せて焼成するそうです。860度程度で揮発

     した食塩が、器に付着し土の鉄分と反応して、青又は茶色に発色します。

     この食塩釉は古くから外国にあった技法で、土管の茶色はこの技法によります。

   e) 牡丹餅(ぼたもち)と伏焼。

以下次回に続きます。

焼き物の着物(色彩)62 古備前 9(牡丹餅、緋襷)

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6) 備前焼の着物。(前回の続きです)

 ? 備前手(近年窯変手と呼ばれています): 古備前と呼ぶ場合、この手の焼き物を指すのが

   一般的です。その特徴は以下の通りです。

 ?) 備前手の種類。

  e) 牡丹餅(ぼたもち)と伏焼(ふせやき)、及び特殊の焼き方。

   イ) 牡丹餅とは、棚板が使われていなかった昔の窯では、多くの作品を重ね焼きをして

    いました。特に無釉の場合には、作品同士がくっつく恐れが少なく、直接重ねる事が

    可能な為、一般に行われています。

    大きな皿や鉢などでは、その内側に徳利や盃、茶碗などを載せて焼成しました。

    載せた跡は、赤く残り他の部分には灰が掛かり、胡麻などが出ますので、明らかな差が

    出ます。特に載せた作品の底が丸い場合には、赤い丸い模様になります。

    この模様(景色と言います)が牡丹餅の様に見える処より、この名前があります。

   ・ 牡丹餅文様は、中心部と周辺部では色の違いがあります。中心部は火に直接触れま

     せんが、重ね合わせの周辺部分では、若干火に触れますので、発色に差がでます。

   ・ 施釉陶器でも重ね焼きを行いますが、その際には、「目」を立てて浮かせて重ねます。

     それ故「目跡」が残ります。

   ロ) 伏焼とは、壷や瓶などの首の部分に、湯呑や筒壷などの作品を伏せて載せて焼成

     すると、その部分が火に触れずに、赤く(又は下とは異なる色に)発色する事になり

     ます。伏せる際、重ね合わせの部分に藁(わら)を巻きつけると、後で述べる緋襷

     (ひだすき)が出る場合があります。

   ハ) 特殊な焼き方として、施釉陶器では不可能な、作品を横に倒して焼成する方法があり

     ます。下になった部分は火が当たりませんので、赤く発色し、他の部分は胡麻が掛かり

     ます。使う際には立てて使用しますので、片側のみに赤が出現する事に成ります。

 ? 緋襷(ひだすき)

   緋襷にするには、胡麻が掛からない様に「匣鉢(さや)」に納めて焼成する必要があります。

  ?) 備前焼は無釉の陶器ですので、原則的には、何枚も重ね焼きが可能になります。しかし

   実際には重ね合わせると、作品の重みで口縁などに加重が掛り、破損する恐れもありす。

   その為、藁(わら)を巻き付てクッションを入れる事で、下部の口縁に掛かる荷重を軽減し

   ました。又、高温で素地はある程度軟らかくなり、密着した部分で焼き付く場合も有りました

   これを防ぐ為にも、密着し過ぎない無い様に作品に藁を巻く必要がありました。

  ?) 藁の当たった部分が緋色に発色する場合があります。これを緋襷と呼んでいます。

    但し、赤い緋襷以外にも、黒っぽい緋襷や鼠色掛かった色になる緋襷も出現します。

    更に、藁を巻けば緋襷が、必ず出現する訳ではありません。

  ?) 赤く発色するのは、藁に多く含まれる珪酸と、素地の鉄分との化学反応の為です。

    窯の雰囲気にも左右され、酸化焼成の方が発色し易いと言われていますが、強酸化では

    緋色が出ないとの事です。即ち、火の焚口の近くより、離れた場所が適します。

  ?) 当然、素地も選ぶ必要があります。伊部の土の様に非常に粘度が強い、黒土が適します。

    信楽や志野土(もぐさ土、五斗蒔土など)等も火色が出易いとの事です。

  ?) 偶然見付けた技法ですが、現在では人工的に緋襷を作る方法もあります。

   a) 藁に食塩水(塩化ナトリウム、塩化カリウムなど)を掛けてから(又は浸してから)

     作品に巻き付けると緋色が出るそうです。

     尚、藁は十分に叩いて軟らかくしておくと、使い易くなります。

   b) 白い粘土の素地に、食塩水に溶いた酸化鉄(弁柄など)を霧吹(噴霧器)で吹きかけ

     焼成する事で、緋色に発色させている人もいるそうです。

  ?) 緋襷は薪窯で発色させますが、ガス窯で焼成している人もいます。

     焼成温度も大切です。1220℃程度が最適で、それ以上に成ると鉄分が飛び、色が消えると

     話す作家さんもいます。

 ? 伊部手。 以前お話した様に、塗土した作品に胡麻の掛かったもので、窯変手と異なり紫褐色

   に焼上がった物が多く、器肌は滑らかに成っています。尚、匣鉢(さや)詰めで焼成し、

   胡麻が掛からない様にした作品も、伊部手と言います。

   江戸初期頃から、茶人の間で流行し伊部で大量に作られる様になります。

以下次回(海揚り)に続きます。
   

焼き物の着物(色彩)63 古備前10(海揚り)

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7) 備前焼の海揚りに付いて。

 海揚り(うみあがり)とは、数百年の昔に難破し沈没した船の積荷が、引き揚げるられた事で

 その積荷を海揚り品といいます。

 ? 海中より古備前を発見。

  1919年(大正8年)岡山県玉野市宇野の沖合いに浮かぶ、香川県の直島(なおしま)の北側の、

  海中より漁師が、古備前を発見します。この付近で難破した船に古備前が積まれている事が

  予想されました。但し、その後も難破船は発見されていません。

  引き揚げ作業が本格化するのは、岡山県の医師の陶守三郎氏が潜水夫を雇い、捜索活動が

  始まる昭和15年(1940年)からで、以後数度に渡って引き揚げ作業が続きます。

  引き揚げられた備前焼は、「上陸備前」又は「海揚り(古)備前」と呼ばれる様になります。

 ? およそ400年前の桃山〜慶長年間に伊部で仕入れた備前焼を満載した大型船が、伊部

  近くの片上港から出航します。しかし、瀬戸内海を航行中に何らかの原因で転覆、沈没した物と

  思われ、積荷が海に没します。

 ? 積荷は桃山〜慶長時代に焼かれたと思われる古備前の品々で、鶴首、徳利類、擂鉢、皿類、

   大甕(高さ 112.1cm、口径 65.1cm、胴径 82.0cm)など、二百数十点に及びます。

   その中には、お預け徳利、鶴首徳利、芋徳利、大皿、ハ寸など伝世品に無いものもあり、

   この発見で新たな作品の存在が知られる様になります。

  ・ 長年の間、海底の泥の中に埋もれていた為に保存状態も良く、味わいのある陶肌が人気を

    呼びます。特に徳利などの酒器が好事家の間で、垂涎の的になっています。

  ・ 中でも「鶴首徳利」は現存数が少なく二十数個と貴重な存在です。全て緋襷の海揚がりの物

    です。その姿は優美で、作行は丁寧です。又高台は備前では稀な碁笥底に成っています。

   その他に、以前紹介した、緋襷の大皿も含まれています。

   これらの品々から、桃山備前の時代区分が、より詳細になったと言われています。

  ・ 残念な事は、海揚り品の多くは、十分な調査や記述を残さずに、四散してしまった事です。

 ? 水の子岩海底遺跡に付いて。

  ?) 発端:1977年(昭和52年)ダイバーが完形品を含む備前焼と見られる陶片群を発見し、

    一部を岡山県立博物館に持ち込みます。翌年1月に予備調査が行われ、備前焼の完形品や

    船のバラスト用の河原石などが確認されます。

    発見場所は、香川県小豆郡内海町の海上の、通称“水の子岩”と呼ばれる岩礁近辺の

    水深20〜40mの場所です。岩礁下に散布していた状況から、伊部の片上港を出港し、

    「水の子岩」に激突して、遭難した船の積み荷であったろうと推測できました。

  ?) 同年(1978年)4月に「水の子岩学術調査団」が結成され、本格的な調査がスタートします

    引き揚げられた遺物は、備前焼の鉢や壷、大甕など10器種210点、金属製品や石製品なども

    含まれていました。これら備前焼は同一時代の生産と見られるとの事です。

  ?) これらの陶器は、畿内周辺で使われていた陶器と同じである事から、南北朝の頃の生産

    でると判明します。

  ?) 遺構概要: 香川県小豆島の東方沖6km、海底20〜40mの地点。

     遺物概要 : 擂鉢77個、捏鉢2個、大型壺68個、中型壺2個、各種の甕類ほか大量の陶片

    などです。生産は、南北朝時代(備前初頭)に属すると考えられています。

 尚、海揚り品は備前焼に限らず、他の海域でも発見されていますし、今後新たに発見される事も

 予想されます。

 今回で古備前の話を終わります。

自己流と陶芸 1

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本来本日より、「焼き物の着物」で古唐津に付いて述べる予定でしたが、ここで小休止を挟みます。

昨今STAP細胞に付いて話題になっており、小保方さんの記者会見も関心を集めました。

陶芸とSTAP細胞とは、何ら関係が無いのですが、記者会見の中での彼女の発言は、陶芸の技術

習得方法にも、いささか関係があると思われますのでお話します。

「あちこちの研究室でお世話になり(本人は居候と言っています)、多くの先生にご指導して頂いた

 にも関わらず、基本的な事が身に付かず、自己流で物事を処理してしまい、私の未熟さもあり

 多くの人々に大変ご迷惑を掛けて申し訳ありませんでした」と言う様な趣旨の発言をされています

1) 自己流は決して悪いわけではありません。

  他の人と同じ事をしていては、進歩発展は望めません。特に科学の世界や芸術の世界では一番

  最初に試み成功した人が、賞賛を浴びる事になります。人とは違った方法や技法は、必ずしも

  他人から教えて貰うのではなく(ヒントは貰えかも知れませんが)、自分で発見しなければ

  成りません。当然それは良い意味の「自己流」と言うことになります。

2) 多くの場合「自己流」は失敗する事が多いのも事実です。

 ? 彼女も述べている様に「基本的な事が身に付かず」に「自己流」に走る事は多くの場合失敗し

  ます。長い期間同じ様な作業(研究や制作など)をしていると、最初の基本からどんどん離れ

  「自己流」に成っていくのは、ある意味必然とも言えますが、「基本が身に付いた」人でないと

  簡単に自己流の道に進むのは危険です。「自己流」とはある意味、楽な方法とも言えます。

 ? 「基本が身に付いている人」とはどうゆう人か。

  「なぜそうするのか?」、「なぜそうしなければならないのか?」が理解出来ている人です。

  この事が十分理解できれば、その応用や自分なりの違う方法を見付ける事が可能ですし、失敗

  しても元に戻す事もできます。

 ? 陶芸の世界でも、「基本が身に付いていない」にも関わらず、「自己流」に落ち込む人は非常

  に多い様に見受けられます。

  教える立場からすると、「自己流」を矯正させるかどうかは、判断が迷う処です。

  「自己流」でどんどん悪い方向に進みそうな場合は、矯正の必要があるかも知れませんが、

  10年も陶芸をやっている方に、注意するのも問題ですし、本人も意固地になるかも知れません

  本人が気付くのが一番良い方法なのですが・・・

3) 趣味程度でも、陶芸の道に入った方は最初に先生から基本的な事柄を学ぶはずです。

  (世の中には、先生を持たずに成功したと言う人もいますが、何らかの先生はいるはずです。)

 ? 最初に学んだ事も年月が経つにつれて、往々にして忘れて仕舞う事も多い物です。

  例えば、自動車の運転免許を取る為に学科試験があり、受かる為に勉強をし交通規則を憶え

  ますが、合格すれば、綺麗さっぱり忘れて仕舞うのと同じです。なにかの際、教本を再度引っ張

  り出し読み直す事もあるかも知れませんが、そんな事はめったにありません。

 ? 「基本」から「自己流」に成るのは自然の事ですが、その方法の目的がしっかり理解出来て

  いれば、何時でも「自己流」を修正する事も出来ます。修正できる人が、「自己流」に進める

  権利が有るとも言えます。

4) 「自己流」には、ご自分で発見したやり方と、第三者の真似まがいの「自己流」があります。

 ? 前者の場合には、創造性を含む場合がありますので、大いに歓迎しますが、後者の場合には

  大きな疑問が生じます。

 ? その第三者に直接学んだ真似であれば問題は少ないのですが、見様見真似の「自己流」は

  危険が一杯です。即ち「まがいもの」ですので、自分で勝手に解釈しているからです。

  第三者の真似まがいの例として、書籍やテレビ等で映し出された映像の真似があります。

  実演者が手早く綺麗な形の器を作っている場合、手や指や用具類を実演者と同じ様にすれば

  自分でも出来ると勝手に思って仕舞う事があります。実演者はなぜその様な方法を取るのかは

  完全に理解しているはずです。物真似者は表面的な様子を見るだけです。 

 ? 特に、今までのやり方と異なる技法をやってみたいと思うのは良いのですが、付け焼刃的では

   上手くいきません。

5) 必ずしも多くの技術(技法)は必要有りません。 

以下次回に続きます。
 

自己流と陶芸 2

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5) 必ずしも多くの技術(技法)は必要有りません。

 ? 目的が同じの場合、その目的を達成する方法や手段は多く存在するのが一般的です。

  だからと言って、それらの方法や手段を、全て身に付ける必要は無いのは当然の事です。

  例えば、制陶する前に土を練るのは、必要不可欠で基本的な事です。 

  この場合、土の硬さを均一にする。土の中の空気を抜く事が主目的になります。

  その為に、手で菊練をするのが普通ですが、その他に足の踵(かかと)を使う方法や、土練機を

  使う方法などがあります。気泡を抜く真空土練機が理想ですが、一般の土練機の場合には、

  菊練を行う事になります。

  又、数十回ランダムに糸で切る方法や、土を床や机に叩き付ける方法など色々あります。

 ? 一般的な手を使っての菊練でも、右手を使い土を右回転方向に移動する方法と、左手を使い

   左回転で練る方法があります。又一度練って丸めた土を、天地を逆にして再度練る方法も

   有ります。どちらが良くどちらが悪いと言う問題では有りません。但しその方法を採用して

   いるのには、それぞれ言い分があると思われます。

 ? 練った土を轆轤(ろくろ)上に据える場合にも、そのまま据える人と、天地を逆にして据える

   人もいます。 練りの回転方向と、轆轤の回転方向を考慮(同回転、逆回転)して決めて

   いる様です。

 ? 轆轤は作品を早く綺麗に作る道具です。

   轆轤に付いても、好みに応じて電動轆轤、蹴り轆轤、昔の回し棒を使う手轆轤など多様です。

   同様に轆轤の回転方向も右回転(時計回り)と左回転(反時計回り)があり、両方を使い

   分けている人もいれば、一方向で全てを済ませる人もいます。

   当然、両手の指の使い方に差が出ます。更に、手や指の使い方は人によって千差万別です。

   それ故、先生又は最初になら習った方法で、専念すべきと考えます。

 以上の様に、目的を達成するには幾つかの方法が存在します。だからと言って全てを見に付ける

 必要はありませんし、各々の方法の間には、厳密には違いが有るのでしょうが、お互いに大きな

 違いはないと思われます。多くを知る事はベテランでは無い限り、混乱(混同)の元になります。

6) 蕎麦打ちを趣味にしている方が、菊練の仕方を蕎麦を練る様にして練っているのを見かけます

  本来別の目的と思われる行為を、同じ物と勘違いしたのも「自己流」と言えます。

  「自己流」と本人が自覚している場合には、さほど問題も無いのですが、「自己流」とは

  認識しないで行っている場合も多いです。注意してくれる人がいれば、「自己流」である事が

  解かるのですが・・、自分のしている行為を他の人と見比べたり、たまには見つめ直すのも

  「自己流」を発見する手段になります。

  前回にも言いましたが、必ずしも「自己流」は悪い訳ではありません。 

7) STAP問題では、実験ノートの有無が重要な証拠として議論されています。

  同様な事が陶芸にも言えます。几帳面な方はノートを所持し作品名、使用粘土の種類、作品の

  形と大きさ、釉の種類などが書き込まれています。そこから何時どの様な作品を作ったかを

  知る事ができます。ノートは自分自身が知れば良い事ですので、公にする必要はありませんが、

  後々大変役に立つ資料に成ります。

8) 陶芸の範囲は、土作りから制作、装飾、絵付け、釉の調整、施釉の仕方、焼成方法などと

  非常に広く、これらを一人で行う事が多いです。即ち分業の部分が少ないです。

  それ故、あれもこれもと手を広げ過ぎると、混乱が起こり自分が一番したい事がおろそかに

  成ってしまい勝ちに成り易いので、十分注意が必要です。

以上せ、「自己流と陶芸」の話を終わります。

次回より、「焼き物の着物」の話に戻ります。

焼き物の着物(色彩)64 古唐津 1(斑唐津、朝鮮唐津1)

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関東では陶器の事を瀬戸物と呼ぶのに対し、西日本では唐津物と呼ばれています。

唐津の焼き物は、東の瀬戸と質量とも対抗する一大産地で、その状態は現在でも続いています。

唐津焼は、佐賀県の唐津市の近傍で焼かれた釉を掛けた(施釉)陶器です。その範囲は唐津市の

南の東松浦郡から、伊万里市、武雄市、有田町、長崎の佐世保市にかけてに広く分布し、その集積地

が唐津であった為、この地方で作られた陶器を唐津焼と呼ぶ様に成ります。

1) 唐津陶器の歴史

  唐津の焼き物が何時から始まったかは、諸説あり確定していません。しかし何処で初めて焼か

  れたかは、有る程度判明しています。

 ? 東松浦郡の岸岳周辺の帆柱(ほばしら)、飯洞甕(はんどうがめ)、岸岳皿屋(さらや)

   などの古窯が最初に築かれたと思われています。

   ここで焼かれた陶器は、藁灰(わらばい)釉や飴(あめ)釉を用いた「斑(まだら)唐津」や

   「朝鮮唐津」(別名、叩き唐津)と呼ばれる物で、鉄絵などは描かれていません。

   これらの窯で焼成された作品を「岸岳古唐津」と呼びます。又、これらの窯は、一般に唐津焼

   きが、いわゆる「焼き物戦争」と呼ばれる文禄、慶長の役(1592〜1598年)で渡来した朝鮮

   陶工によって起こされた諸窯より、先行していたのは確実の様です。

 ?  古唐津には、「斑唐津」と、「朝鮮唐津」の二種類があります。

   どちらも、器形は壷、碗(茶碗など)、片口、猪口などが主な物です。

  ?) 「斑唐津」とは乳濁した不透明な釉が、一面に掛かった焼き物です。必ずも斑(まだら)

    に成っている訳では有りません。

   a) 釉の調合は、土灰と長石から基礎釉を作り、藁灰を加え乳濁させた物です。

     藁灰には多量の珪酸(けいさん)が含まれ、この珪酸の影響で白色になります。

   b) この釉を掛けると、全面が真っ白に成る訳ではなく、細い筋状と成って流れ落ちます。

     別名「卯の斑(うのふ)」と呼ばれる釉と同じ様な物です。

   c) 素地には砂目を含む、粗目の白土を用い、水挽轆轤(ろくろ)成型されています。

  ?) 「朝鮮唐津」は、上記「斑唐津」とは、素地粘土の違い、成形方法の違いがありますが、

    同じ窯で焼かれていました。以下その成形方法を述べます。

   a) 土は鉄分の多い、ねっとりとした細土を使います。叩き技法に適した土です。

     この土に土灰釉を掛けると、鉄分の影響で赤褐色に焼き上がります。

   b) 水挽き轆轤成形ではなく、叩き技法による成形方法です。

   c) 轆轤上の亀板に輪積みした粘土を積み上げます。

   d) 適度の高さに積み上げたら、内側に丸い当て板をあてがいます。

     当て板は、丸太を輪切りにして作ります。

   e) 外側より、平らな叩き板で叩いて土を薄く延ばします。

     轆轤をゆっくり回転させながら、上下左右を満遍なく叩きます。

   f) 叩く事により、上下の土が密着し強度が増します。

     同時に、形を整えて行きます。その際、叩き板に格子文や傾斜文などの模様が刻まれて

     いると、密着度を増すと同時に、叩き跡が一種の装飾模様になります。

   g) 必要な形に成ったら、水挽き轆轤成形で口縁を作り、底回りを削って完成です。

     最後に内側に当て板を当てる為に、開いていた口縁は閉じる事になります。

  ?) 岸岳周辺の窯の終焉。

    東松浦郡地方を支配していた波多氏一族が1593年に滅亡すると、この地の窯業は衰退して

    行きます。当時作られた「斑唐津」も「朝鮮唐津」も、後代の唐津焼の華やかさは無く、

    素朴で飾り気の無い、民衆の雑器として使い捨てられる運命にありました。特に叩き唐津と

    呼ばれる、「朝鮮唐津」はほとんど伝来する作品は少ないです。

    一方、「斑唐津」と呼ばれる器は独特の釉の影響で、茶人に見出され茶碗や水指として

    利用されますが、先に述べた様に、雑器と作られた物を見立てて使用した物です。

   ・ 波多氏の下で働いていた陶工達は、他の地域の諸窯に移動したか、他の場所で窯を築き

     技術は途絶える事無く続く事になります。

 ? 古窯跡と「斑唐津」と「朝鮮唐津」の作品。

以下次回に続きます。

焼き物の着物(色彩)65 古唐津 2(斑唐津、朝鮮唐津2)

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 ? 古窯跡と出土品。

  古唐津焼は、「岸岳七窯」と呼ばれる窯で焼成され、それらは東松浦郡を支配していた、

  波多氏の居城の「岸岳城」に隣接する山間に点在していました。

  ?) 飯洞甕(はんどうがめ)下窯の発掘。

   1956年(昭和31年)、肥前陶磁研究会によって、一番保存状態の良い下窯が発掘調査され、

   以下の事が判明します。

   a) 窯の構造は「割竹式登窯」と判明します。この登窯は現在の登窯に先行する窯です。

    登窯とは、山腹の傾斜を利用した複数個の焼成室が連続している構造になっています。

    中世では窖窯(あながま)が使われていましたが、桃山時代になり量産を目的とした窯です

   ・ 割竹式の名前の由来は、竹を二つに割り、伏せた状態に見える事から付けられます。

   ・ 時代区分は出土品から、室町後期の頃と推察されます。

   b) 窯は傾斜角が、約 15.5度で西から東に向かって築かれています。

    全長約 17m、焼成室は八室ありました。一部屋は横幅約 2.2m、長さ約 2.0m、砂床から

    天井までの高さが約 1.2mで、全て粘土を貼り付けて作られています。

    途中で火力を増す為に、各室の右横に焚口が設けられていました。

   c) 窯詰方法は、砂床に直置きする方法と、馬蹄形の「ハマ」や陶枕(とうちん)を使って

    います。又、重ね焼きの方法と、赤貝を使う貝高台が使われていました。

   d) 出土品する陶片は、壷や甕、鉢などの日用雑器が主です。その他、片口、猪口などがあり

    少数ながら、志野風の彫唐津茶碗(次回述べます)も出土しています。

  ?) その他の窯の発掘。

   a) 帆柱窯: 斑唐津の優れた作品を多く焼いています。

    斜面は20度近い急勾配です。胎土はざらざらした砂粒の混在する粗い土です。

    製品は、碗、皿、ぐい呑、徳利、水指、片口、鉢、瓶類、壷、甕の類が多いです。

    ・ 失透性の藁灰釉で、白灰色の釉の中に青く細い斑文が浮き出景色が珍重されました。

   b) 椎の峰(しいのみね)窯:1594年波多氏が秀吉により滅亡します。岸岳窯の陶工が

    一度は散々に成りますが、元和年間(1615〜1624年)にこの地に集まり、窯を築いたと

    されています。ここでも、日用雑器を中心に焼かれていますが、茶陶も多く見られます。

    ・ 斑唐津、朝鮮唐津、絵唐津、三島唐津、二彩唐津、献上唐津などほとんどの種類の

     装飾技法が取られています。

   c) その他、藤ノ川内窯、道園(どうぞの)窯、甕屋の谷窯、桃山窯なども発掘調査され

     ますが、詳細は省略します。

 ? 「斑唐津」と「朝鮮唐津」の作品。

  ?) 斑唐津点斑(てんぱん)文壷: 重要文化財。

    高さ 17.2cm、口径 12.8cm、高台径 9.5cm

    全体に厚造り、下膨れの腰の張った作品で、竹の節高台になっています。

    全体に藁灰釉がたっぷり掛けられ、口縁と肩の六っ箇所には黒い鉄釉が掛けられ、二彩釉の

    先駆的な作品です。

  ?) 斑唐津彫文壷: 根津美術館蔵。

    高さ 14.9cm、口径 9.5cm、高台径 9.1cm

    胴に四本の刻線を巡らせ、縦方向に六本の溝が彫られています。

    この縦線には釉が掛けられていない事から、施釉後に削り取ったと思われます。

  ?) 朝鮮唐津水指 銘(廬爆=ろばく):千家名物 藤田美術館蔵。17世紀 藤ノ川窯 

    高さ 17.1cm 口径 10.1cm

    叩き造り、口は玉縁で胴の下側には黒飴が掛り、口縁から肩に掛けて白い藁灰釉が瀧の

    様に流れ落ちている逸品です。雑器を水指に見たてた物と思われています。

  ?) 朝鮮唐津 一重水指: 17世紀 藤ノ川内茅の谷窯。

    高さ 14.8cm、口径 15.8〜20.0cm、底径 9.5cm

    最初から水指として作られたと見なされている作品です。

    叩き造りで、桶の箍(たが)を表現したと見られる削り跡があります。

以下次回に続きます。

焼き物の着物(色彩)66 古唐津 3(彫唐津)

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2) 渡来人による焼き物。

  豊臣秀吉による朝鮮出兵は、彼の病死によって撤退されますが、多くの朝鮮の陶工達が各地の

  西国大名達によって拉致され、我が国に渡来する事になります。

  彼ら朝鮮の陶工達や彼らの指導によって、唐津焼のみならず、後日取り上げる、萩、上野

 (あがの)、高取、薩摩など多くの西国大名の元で、新たな窯が築かれ新しい陶磁器の産地に

  発展して行きます。この事は我が国の陶芸界に一大変革をもたらしました。

  その背景にあるのは、各藩の台所事情で、藩の財政を豊かにする為に、新たな産業を起こし、

  現金収入を増やしたい思惑がありました。

 ? 唐津焼は、朝鮮から渡来した陶工達により、従来の岸岳系の陶工と伴に、肥前一帯に多くの

   窯を開く事に成ります。

   特に現在の松浦町周辺で約30箇所の松浦系の窯跡があります。同様に武雄町の周辺にも

   約25〜30箇所の窯跡(武雄系)が見つかっています。その他、平戸系で約20数箇所など

   総数で100箇所近い窯跡が見つかっています。

   (但し、同時に100箇所ではなく、時代に幅があります。)

  ?) 一元的でない唐津焼。これが唐津焼の魅力になっています。

    出身も異なる陶工達が広い場所に多くの窯を築いた為、色々な種類の唐津焼きが生まれます

   a) 窯を築く土地により、粘土の種類が異なるのは当然です。

    白い土、赤土、赤黒土、肌理の細かい土、粗い土、粘り気のある土、砂混じりの土など

    多彩です。当然、その土に適した作り方や作品ができます。

   b) 釉にも多様性があります。白い釉(白濁釉)でも窯により、微妙に差があります。

    透明に近い釉、半濁釉、白濁釉、青味を含む釉などがありますが、同じ釉であっても素地の

    違いで発色は異なります。

   c) 絵柄や絵の描き方なども千差万別です。朝鮮系の絵柄や我が国特有の絵柄などが描かれて

    います。

  ?) 但し、当然の事ながら、当時でもある程度の共通事項も存在します。

   a) 新興の窯では、渡来人の影響が大きく、李朝中期の南朝鮮系の焼き物が強く影響した

    作品が作られています。それはこだわりの無い、素朴で明るい焼き物と成っている事です。

   b) 三島又は三島風の技法も朝鮮からもたらせれた物です。

    その他、粉引唐津、刷毛目唐津、絵唐津、黒唐津、二彩唐津、備前唐津、瀬戸唐津など

    多様な加飾の技法が出現する事に成ります。これらに付いては後日お話します。

3) 彫(ほり)唐津に付いて。

  成形後、素地がまだ生乾きの状態で、竹ベラや櫛などで幾何学的で単純な紋様を彫り、長石釉を

  掛けて志野風に焼いた物を彫唐津と言います。

 ? 岸岳古窯の一つの飯洞甕下窯から、彫唐津の茶碗の破片が発見されます。この茶碗が焼か

  れたのは、1592〜11593年と見られています。その背景には、文禄、慶長の役の司令部である肥前

  名護屋城に、古田織部(1544〜1615年)が滞陣し、近隣の岸窯に意匠を指示させて作らせた

  と言う事も考えられます。

 ? 胴の外側全周に、大きな☓形の深い彫文様が連続して彫られ、長石釉が掛けられているのが

  特徴です。又、彫込み部分に鉄絵(鉄釉)を施した彫絵唐津があります。

  ・ 彫唐津茶碗 銘玄界: 桃山時代(16世紀末) 飯洞甕 京都民芸館蔵。

    高さ 10.1cm、 口径 12.9〜14.2cm、 高台径 7.4cm 

    口縁は不規則な七角形で、二重高台です。胴に大きなX印の陰刻があります。

  ・ 彫絵唐津茶碗: 16世紀末 飯洞甕下窯、上窯より同一陶片が出土しています。

    高さ 9.8cm、 口径 13.0〜14.0cm、 高台径 7.9cm 

    胴部に箆(へら)でX印の陰刻があり、長石釉を掛けた後、陰刻の上に黒釉を掛けてあり

    ます。焼成温度が低い為、長石釉が十分熔けず、高台脇の梅花皮(カイラギ)が景色と

    成っています。   

    轆轤造りで、素地は砂気のある白土です。半筒形で口縁部を五箇所指の腹で凹ませて

    あります。

4) 奥高麗(こうらい)に付いて。

以下次回に続きます。
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