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Channel: わ! かった陶芸 (明窓窯)
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焼き物の着物(色彩)77 古萩焼 1

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江戸時代の茶陶で最も著名な焼き物は、楽焼と萩焼と言われています。

但し、萩茶碗の名声が高まるのは、江戸中期以降と見なされています。江戸初期の頃は「萩焼」の

名前は無く、上野焼や高取焼の方が茶会記に多く登場していました。

江戸中期から後期に掛けて、千家流で大いに賞賛され用いられる様になると「一楽二萩三唐津」と

言われる程になります。特に萩茶碗が主で他の作品の伝世品は少ない様です。

1) 萩焼の開窯。

  朝鮮の渡来人の陶工の李勺光(りしゃこう=シャムカン)により、毛利藩の「御用窯」として

  スタートします。 時は毛利藩が、1604年に長門と周防の二国の領主に縮小された以降と見な

  されています。

   注: 李勺光は秀吉の朝鮮出兵の文禄の役(1592年)の祭、秀吉の命令で大阪に連行され

    その後、毛利輝元に預けられます。

  ? 窯の場所は萩城下の松本中之倉で、「御細工人」として召抱えられます。

   その後、渡来した弟の李敬(りけい)や数名の陶工も参加します。

    注: 李敬は坂本助八と名乗り、後に「坂」と改名し「初代坂高麗左衛門」となり、松本

     萩の棟梁になります。現在の坂家に繋がる家柄です。

   李勺光の子は、山村新兵衛光政と名乗り、松本中之倉の御用窯を統括しますが、故あって

   殺害され、その子(勺光の孫)が長門深川湯元の三之瀬(そうのせ)に窯を築きます。

   これが深川萩の始まりです。尚、この窯の弟子達の中から、「坂田泥華」「坂蔵新兵衛」

   「田原陶兵衛」「新庄寒山」などが輩出し、各々窯が築かれます。これらの窯は十数代に

   渡り、代々継承され現在に至っています。

  ? 初代三輪休雪が、「松本椿窯」を開業します。

    大和の三輪出身(異説あり)の三輪十蔵が、寛文三年(1663年)に毛利藩に「焼物師」

    として召抱えられます。十蔵は後に休雪と称される様になります。現在三輪家は萩焼きの

    代表的な窯元に成っています。

2) 萩古窯址の発掘調査。

   代々の坂高麗左衛門が焼成した萩市椿中之倉に、数基の古窯があります。その中でも最も

   初期の窯と思われる一号窯と二号窯の発掘調査が、1976〜77年に行われています。

  ? 一号窯は全長28mの朝鮮系の12連(袋)の連房式登窯です。1650年まで使われていた事が

    判明されます。物原(ものはら:焼き損じた物を捨てるごみ捨て場)はすでに破壊され

    どの様な作品が焼かれていたかは、はっきりしません。但し窯内や窯横から多数の陶片が

    採取できましたが、日常食器類が多く、茶碗などの茶陶はほとんど見つける事は出来ません

    でしたが、轆轤挽された作品も多くあります。

   ? 二号窯は一号窯に続く窯で、寛文年間(1661〜1673年)に活況を呈した窯で、伝世品と

    同様な茶碗の破片が見つかっています。但し、この窯からは井戸風の茶碗は発見されて

    いません。釉は白釉や青磁風の物が多く見受けられます。

3) 古萩焼の特徴。

  ? 土は周防国吉敷郡大道村(現、防府市)から産出する「大道土」が主に使われています。

   この土に地元で採れる土を適度にブレンドしたと思われます。    

   窯場毎に又作品毎に、土を調合していた様です。例えば、坂高麗左衛門家に伝わる記録には

    「あさぎ土」「濃茶土」「高麗茶碗井戸の土」「びわ色の土」「三島手土」「俵手土」

    等の記載があります。

  ? 釉も「濃茶くすり」「あさぎくすり合せ」「わらはい(藁灰)合せ」「茶入薬」「黒楽」

    の記載がみられます。長石に土灰を混ぜた釉、藁灰を混ぜた釉が基本で、素地の違いや

    釉の濃淡、焼成方法によって、釉調も大きく変化し、使用しているうちに色調も変化する

    のも萩焼の特徴です。

  ? 茶碗の種類。

 以下次回に続きます。

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