従来、中世の焼き物は、六古窯(瀬戸、常滑、越前、信楽、丹波、備前)を中心に考察されていま
したが、同時代に全国に二十四箇所の窯場が確認され、美濃や伊賀、加賀などでは六古窯同様に
現在でも生産が続いている事からも、六古窯に囚われる必要性も少なくなりました。
今日では、中世の焼き物は、土師器(はじき)系、須恵器(すえき)系、瓷器(しき)系の三系列に
分けて考える様に成ります。
土師器系は、祭礼用と煮沸用の日常食器として使われ、須恵器系は、平安時代の須恵器の伝統を引
き継ぎ、無釉の焼締陶の信楽、丹波、備前などの焼き物や、珠洲や亀山などの産地があります。
白瓷(しらし)の流れを汲む、施釉陶器は、瀬戸、美濃のみに引き継がれます。
1)古瀬戸焼き。
愛知県瀬戸市地域では、猿投窯の白瓷の伝統の上に南宋の製陶技術を導入し、当時唯一の
施釉陶器の生産地であり、中世窯業の中心地として栄えます。16世紀に成ると美濃の地でも
施釉の焼き物が作られる様になります。以後数百年に渡り現在も、瀬戸と美濃は日本の窯業の
中心として栄えています。
? 古瀬戸の発生。
(鎌倉から室町時代中期まで 12世紀〜15世紀頃までに焼かれた瀬戸焼きを、古瀬戸と
呼びます。)
古瀬戸の発祥には、陶祖加藤藤四郎左衛門景正の伝説が伝わり、1242年に瀬戸で良質の
粘土を発見し、窯を興したのが最初と言われていますが、確実な証拠はありません。
現在では二通りの説があります。
?) 再興灰釉(かいゆ)陶器説: 12世紀に白瓷の生産が衰退した後、鎌倉時代中期に
瀬戸の南部丘陵地帯で、四耳壷(しじこ)や瓶子などが、大量に施釉陶器として作られる
様になります。この事から、古瀬戸の発祥は鎌倉中期頃と推測する説です。
四耳壷は、鎌倉時代に中国の宋で作られた物を模倣して作られた物です。主な用途は蔵骨壷
として使われています。
?) 猿投窯東山地区の東山窯説: 平安末に猿投窯が衰退し常滑や渥美に生産地が移動したが
一部は猿投に留まり、より高級な施釉陶器として生き残ったと言う説です。
? 古瀬戸の製品。
中世で施釉陶器を焼いた古瀬戸窯は、二百基余り存在していたと言われています。
?) 施釉陶器は社寺、貴族、武士階級、富裕農民層らが使用した日常容器類ですが、その
種類は、食器用(碗、皿、鉢、水注など)、調理器具(卸皿、擂鉢、片口、釜、土瓶)、
貯蔵容器(壷、瓶、甕類)、日常用具(薬壷、水滴、合子、燭台、各種鉢類)、仏具
(瓶子、花瓶、灯明皿、香炉、仏塔)、茶陶(天目茶碗、茶壷)などがありますが、
ほとんどが、中国陶器の模倣品として作られていた様です。
?) 時代によって作られた施釉陶器の器形が変化しています。
a) 平安末〜鎌倉初期:四耳壷、仏具などが多いです。
b) 鎌倉前期〜南北朝:高級食器類が焼かれ、更に火葬蔵骨器(灰釉四耳壷)や花瓶や香炉など
社寺を対象とした祭祀用具が顕著です。
c) 室町時代: 天目茶碗、茶入など茶道具類が多いです。
?) 中世の焼き物は、農業と深く結び付いています。
a)小壷は籾殻(もみがら)の貯蔵用に使われ、種壷と呼ばれています。信楽の蹲る(うずく
まる )は著名な種壷です。
b) 種を播く際に、種を水に浸し発芽を促進させる容器として、壷が使われています。
播種前に籾殻を水に浸す事で、稲の生育を大きする働きがありました。
c) 甕も水蓄える他、酒を発酵させたり、貯蔵するものとして利用されています。
更に、肥甕(こえかめ)として使われます。即ち鎌倉時代より糞尿が肥料として利用される
様になると、糞尿を発酵させる為に、屋敷の一部に埋めた大甕が使われています。
尚、糞尿の利用は60年程前までは一般に見られる光景でした。
以下次回に続きます。
したが、同時代に全国に二十四箇所の窯場が確認され、美濃や伊賀、加賀などでは六古窯同様に
現在でも生産が続いている事からも、六古窯に囚われる必要性も少なくなりました。
今日では、中世の焼き物は、土師器(はじき)系、須恵器(すえき)系、瓷器(しき)系の三系列に
分けて考える様に成ります。
土師器系は、祭礼用と煮沸用の日常食器として使われ、須恵器系は、平安時代の須恵器の伝統を引
き継ぎ、無釉の焼締陶の信楽、丹波、備前などの焼き物や、珠洲や亀山などの産地があります。
白瓷(しらし)の流れを汲む、施釉陶器は、瀬戸、美濃のみに引き継がれます。
1)古瀬戸焼き。
愛知県瀬戸市地域では、猿投窯の白瓷の伝統の上に南宋の製陶技術を導入し、当時唯一の
施釉陶器の生産地であり、中世窯業の中心地として栄えます。16世紀に成ると美濃の地でも
施釉の焼き物が作られる様になります。以後数百年に渡り現在も、瀬戸と美濃は日本の窯業の
中心として栄えています。
? 古瀬戸の発生。
(鎌倉から室町時代中期まで 12世紀〜15世紀頃までに焼かれた瀬戸焼きを、古瀬戸と
呼びます。)
古瀬戸の発祥には、陶祖加藤藤四郎左衛門景正の伝説が伝わり、1242年に瀬戸で良質の
粘土を発見し、窯を興したのが最初と言われていますが、確実な証拠はありません。
現在では二通りの説があります。
?) 再興灰釉(かいゆ)陶器説: 12世紀に白瓷の生産が衰退した後、鎌倉時代中期に
瀬戸の南部丘陵地帯で、四耳壷(しじこ)や瓶子などが、大量に施釉陶器として作られる
様になります。この事から、古瀬戸の発祥は鎌倉中期頃と推測する説です。
四耳壷は、鎌倉時代に中国の宋で作られた物を模倣して作られた物です。主な用途は蔵骨壷
として使われています。
?) 猿投窯東山地区の東山窯説: 平安末に猿投窯が衰退し常滑や渥美に生産地が移動したが
一部は猿投に留まり、より高級な施釉陶器として生き残ったと言う説です。
? 古瀬戸の製品。
中世で施釉陶器を焼いた古瀬戸窯は、二百基余り存在していたと言われています。
?) 施釉陶器は社寺、貴族、武士階級、富裕農民層らが使用した日常容器類ですが、その
種類は、食器用(碗、皿、鉢、水注など)、調理器具(卸皿、擂鉢、片口、釜、土瓶)、
貯蔵容器(壷、瓶、甕類)、日常用具(薬壷、水滴、合子、燭台、各種鉢類)、仏具
(瓶子、花瓶、灯明皿、香炉、仏塔)、茶陶(天目茶碗、茶壷)などがありますが、
ほとんどが、中国陶器の模倣品として作られていた様です。
?) 時代によって作られた施釉陶器の器形が変化しています。
a) 平安末〜鎌倉初期:四耳壷、仏具などが多いです。
b) 鎌倉前期〜南北朝:高級食器類が焼かれ、更に火葬蔵骨器(灰釉四耳壷)や花瓶や香炉など
社寺を対象とした祭祀用具が顕著です。
c) 室町時代: 天目茶碗、茶入など茶道具類が多いです。
?) 中世の焼き物は、農業と深く結び付いています。
a)小壷は籾殻(もみがら)の貯蔵用に使われ、種壷と呼ばれています。信楽の蹲る(うずく
まる )は著名な種壷です。
b) 種を播く際に、種を水に浸し発芽を促進させる容器として、壷が使われています。
播種前に籾殻を水に浸す事で、稲の生育を大きする働きがありました。
c) 甕も水蓄える他、酒を発酵させたり、貯蔵するものとして利用されています。
更に、肥甕(こえかめ)として使われます。即ち鎌倉時代より糞尿が肥料として利用される
様になると、糞尿を発酵させる為に、屋敷の一部に埋めた大甕が使われています。
尚、糞尿の利用は60年程前までは一般に見られる光景でした。
以下次回に続きます。