現在でも焼き物を生産している愛知県の瀬戸市は、鎌倉時代初期から凡そ1000年の歴史を誇る、
一大焼き物の産地です。
古瀬戸とは、鎌倉、室町時代から中世までの間、我が国唯一の施釉陶器が生産された焼き物を言い
ます。当時は宋(中国)や高麗(朝鮮)の青磁や白磁を模倣した、高級陶器を生産していました。
1) 古瀬戸の特徴。
古瀬戸の釉は、伝統的な灰釉(かいゆ、はいゆ)と、鎌倉後期に登場する鉄釉に二分されます。
? 灰釉: 猿投の釉が灰の単味なのに対し、瀬戸の灰釉は灰に長石を混入させて作っています
a) 長石と混ぜる事で、灰中のアルカリと長石中の珪酸とアルカリ成分とで、よりガラス質を
増大させ、熔解し易くなります。更に、作品に密着させる事が出来、器全体を強固な物に
する事が出来ます。
b) 長石の含有量によって、異なる性質の釉を作る事が可能になります。
即ち、長石分が少ないと、釉は流れ易く不透明に成ります。逆に長石分が七割を超えると
釉は流れ難くなり、透明度も上がります。更にガラス質も平坦で厚くなります。
c) 鎌倉時代までの古瀬戸釉は、長石が少なく流れ易いですので、焼成中に流れ落ちるのが
特徴です。しかも、その流れも規則性に乏しく、温度が上昇するに従い、珪酸特有の結晶の
影響で、不規則な流れと成っています。
d) 鎌倉時代に使用されていた長石は、アルカリ成分の多い風化した物で、焼成中に灰の成分
と複雑な化学変化を起こし、独特の釉の流れと貫入を起こします。
現在の長石では、当時の様に釉の流れ、貫入、光沢を出すのは、困難と思われています。
e) 鎌倉時代の灰釉の焼き物の多くは出土品で、地中に長く埋没していた為、アルカリ
成分が水に溶け、作品から抜け出し、貫入が大きくなったり深く成りします。
更に、釉の透明度が失われ、くすんだ色に成っている物が多いです。
? 鉄釉; 主に光沢のある茶褐色の釉で、一般に「飴釉(あめゆ)」と言われている釉です。
a) 当時の鉄釉は、濃淡の「むら」のあるのが特徴です。
b) 器の表面に、印花文や貼り付け文(貼花文=ちょうかもん)が施され、鉄釉が薄く掛かる
事で、文様を浮かび上がらせています。
c) 古瀬戸釉と呼ばれる鉄釉は、鉄分に「鬼板」を使い、赤味を帯びた釉に成っているのが
特徴です。
d) 室町時代に成ると、灰釉や鉄釉ともに、長石の割合が増え、ガラス質が厚くなる結果
印花文や貼花文の装飾模様は、消滅してしまいます。
2) 古瀬戸の成形方法。
鎌倉時代の力強い形の焼き物は、紐造りの成果と言われています。
? 小さな作品は轆轤挽により、大型の壷や瓶子(へいし)等は、紐土の巻上げ又は、輪積み
の方法で制作しています。但し表面のみを轆轤挽きした作品に成っています。
肩の張った作品を造るには、轆轤水挽き制法では無理が有り、やむなく、紐造りで成形して
います。
? 室町時代に成ると、轆轤技術も向上し、壷や瓶子も轆轤挽と成ります。
3) 「永仁の壷」事件。
名高い贋作騒動の「永仁の壷」は、1960年に発覚した事件です。
加藤唐九郎氏の関与が認定され、贋作として決着が付いています。
? 鎌倉末期の「永仁」の年銘のある古瀬戸とされた壷は、以下の疑問点が指摘されていました
?) 釉の流れが作為的で、不自然である。
?) 釉面に傷や風化の痕が無い。更に、永年の歴史を示す凹凸が無い。
?) 釉の剥落がわざとらしく、不自然である。
?) 年号や表記の仕方が当時の方法と異なる。
?) 肩の張り具合や胴の膨らみにアクセントが少ない。
? 小山富士夫氏(文部技官 ・文化財専門審議会委員、重要文化財への推薦者)が騙された手口
小山氏は、上記疑問点は当然認識していました。しかし本物と見誤るには以下の事情が
あったと言われています。
?) 鑑定に当たり、その拠り所としたのは、根津美術館所蔵の「松留窯」出土の数百の
陶片との事です。
?) この陶片群は、当時、鎌倉時代の古瀬戸を鑑定する際の基準と成っていました。
それ故、これらを利用して、鑑定しても問題は無いはずです。
実際に、陶片と照合すると、「永仁の壷」は本物になります。
?) ところが、「松留窯」が架空の古窯址である事が判明します。
出土された陶片は、実は唐九郎氏が、焼いた物である事が、贋作騒動の中で発覚します。
?) 即ち、基準となる陶片が贋作である為、これを拠り所として鑑定した「永仁の壷」は
贋作とみなされる事になります。
注: 上記記事は「やきもの鑑定入門」新潮社出版 出川直樹監修 芸術新潮編集部編 を
参考(引用)にしました。
以下次回に続きます。
一大焼き物の産地です。
古瀬戸とは、鎌倉、室町時代から中世までの間、我が国唯一の施釉陶器が生産された焼き物を言い
ます。当時は宋(中国)や高麗(朝鮮)の青磁や白磁を模倣した、高級陶器を生産していました。
1) 古瀬戸の特徴。
古瀬戸の釉は、伝統的な灰釉(かいゆ、はいゆ)と、鎌倉後期に登場する鉄釉に二分されます。
? 灰釉: 猿投の釉が灰の単味なのに対し、瀬戸の灰釉は灰に長石を混入させて作っています
a) 長石と混ぜる事で、灰中のアルカリと長石中の珪酸とアルカリ成分とで、よりガラス質を
増大させ、熔解し易くなります。更に、作品に密着させる事が出来、器全体を強固な物に
する事が出来ます。
b) 長石の含有量によって、異なる性質の釉を作る事が可能になります。
即ち、長石分が少ないと、釉は流れ易く不透明に成ります。逆に長石分が七割を超えると
釉は流れ難くなり、透明度も上がります。更にガラス質も平坦で厚くなります。
c) 鎌倉時代までの古瀬戸釉は、長石が少なく流れ易いですので、焼成中に流れ落ちるのが
特徴です。しかも、その流れも規則性に乏しく、温度が上昇するに従い、珪酸特有の結晶の
影響で、不規則な流れと成っています。
d) 鎌倉時代に使用されていた長石は、アルカリ成分の多い風化した物で、焼成中に灰の成分
と複雑な化学変化を起こし、独特の釉の流れと貫入を起こします。
現在の長石では、当時の様に釉の流れ、貫入、光沢を出すのは、困難と思われています。
e) 鎌倉時代の灰釉の焼き物の多くは出土品で、地中に長く埋没していた為、アルカリ
成分が水に溶け、作品から抜け出し、貫入が大きくなったり深く成りします。
更に、釉の透明度が失われ、くすんだ色に成っている物が多いです。
? 鉄釉; 主に光沢のある茶褐色の釉で、一般に「飴釉(あめゆ)」と言われている釉です。
a) 当時の鉄釉は、濃淡の「むら」のあるのが特徴です。
b) 器の表面に、印花文や貼り付け文(貼花文=ちょうかもん)が施され、鉄釉が薄く掛かる
事で、文様を浮かび上がらせています。
c) 古瀬戸釉と呼ばれる鉄釉は、鉄分に「鬼板」を使い、赤味を帯びた釉に成っているのが
特徴です。
d) 室町時代に成ると、灰釉や鉄釉ともに、長石の割合が増え、ガラス質が厚くなる結果
印花文や貼花文の装飾模様は、消滅してしまいます。
2) 古瀬戸の成形方法。
鎌倉時代の力強い形の焼き物は、紐造りの成果と言われています。
? 小さな作品は轆轤挽により、大型の壷や瓶子(へいし)等は、紐土の巻上げ又は、輪積み
の方法で制作しています。但し表面のみを轆轤挽きした作品に成っています。
肩の張った作品を造るには、轆轤水挽き制法では無理が有り、やむなく、紐造りで成形して
います。
? 室町時代に成ると、轆轤技術も向上し、壷や瓶子も轆轤挽と成ります。
3) 「永仁の壷」事件。
名高い贋作騒動の「永仁の壷」は、1960年に発覚した事件です。
加藤唐九郎氏の関与が認定され、贋作として決着が付いています。
? 鎌倉末期の「永仁」の年銘のある古瀬戸とされた壷は、以下の疑問点が指摘されていました
?) 釉の流れが作為的で、不自然である。
?) 釉面に傷や風化の痕が無い。更に、永年の歴史を示す凹凸が無い。
?) 釉の剥落がわざとらしく、不自然である。
?) 年号や表記の仕方が当時の方法と異なる。
?) 肩の張り具合や胴の膨らみにアクセントが少ない。
? 小山富士夫氏(文部技官 ・文化財専門審議会委員、重要文化財への推薦者)が騙された手口
小山氏は、上記疑問点は当然認識していました。しかし本物と見誤るには以下の事情が
あったと言われています。
?) 鑑定に当たり、その拠り所としたのは、根津美術館所蔵の「松留窯」出土の数百の
陶片との事です。
?) この陶片群は、当時、鎌倉時代の古瀬戸を鑑定する際の基準と成っていました。
それ故、これらを利用して、鑑定しても問題は無いはずです。
実際に、陶片と照合すると、「永仁の壷」は本物になります。
?) ところが、「松留窯」が架空の古窯址である事が判明します。
出土された陶片は、実は唐九郎氏が、焼いた物である事が、贋作騒動の中で発覚します。
?) 即ち、基準となる陶片が贋作である為、これを拠り所として鑑定した「永仁の壷」は
贋作とみなされる事になります。
注: 上記記事は「やきもの鑑定入門」新潮社出版 出川直樹監修 芸術新潮編集部編 を
参考(引用)にしました。
以下次回に続きます。