1) 鍋島焼。
17世紀初期から19世紀後半(1610〜1865年前後)の肥前の有田郷で製造された染付、色絵磁器の
中に、「鍋島焼」と呼ばれる作品があります。
? 鍋島藩の「御用窯」。
?) 鍋島とは、肥前鍋島藩窯で焼かれた「鍋島御用焼」の略称で、現在では鍋島藩窯の製品を
「鍋島焼」又は、「鍋島様式」と呼ばれています。
但し、当時「藩窯」の言葉は用いられず、「御用窯」「御用焼」「御道具山焼」と表現
されていた様です。
?) 当時茶の心得のある各地の大名は、領内や城内に「御庭焼」称する「御用窯」を築き、
茶道具を作るのが一般的でした。肥前佐賀の鍋島藩に於いても、寛永五年(1628年)有田郷
内山の岩谷川内に最初の「御用窯」を作り、寛文初年(1661年)に南川原山に、次いで
大川内山に移築します。 多くの鍋島焼は、この大川内山の窯で焼かれた物です。
?) 藩窯が有田や伊万里の中心部から、遠く離れた山間の辺境の地の大川内に置かれたのも、
情報漏洩を防ぐ為であったと思われています。
本格的に「御用窯」として活動を始めるのは、1675年頃からと言われています。
? 肥前鍋島の「御用窯」が、他の諸大名の「御用窯」と異なるのは以下の事柄です。
?) 鍋島三十五万七千石の体面を保持しつつ、藩の直営企業として、明治四年の廃藩置県
に至る、約240年間の長期に渡り操業され続けられます。(尚、その後は、今泉今右衛門家に
よって、近代工芸として復興され、21世紀に至っています。)
?) 鍋島藩の監督の中、一定水準以上の高度の磁器を作り続けていました。
?) 窯や細工場、職人の新陳代謝を計り、製品の改良に努めていました。
?) 「御用窯」の製品は一般の市販品ではなく、厳選された上、将軍家、幕府公儀、公家、
各地の諸大名、社寺への献上品や贈答品として使用されていました。
又、上記諸侯からの、指定の意匠や絵文様による特注品の製作も行っていました。
?) 製品は大名社会の生活調度品であり、他の漆工芸(塗り物)や染織工芸と調和を保つ
作品に成っています。
?) 最高級の色絵磁器を製造する為に、監督は元より、原材料(陶石、釉、顔料など)の吟味
製法の標準化、職人の技術の熟練度の向上など、多くの注意が払われていました。
? 大河内藩窯。
?) 磁器の工房は、細工方11名、画工9名、捻細工4名、下働き7名の31名から構成されていた
そうです。他に「御手伝窯焼」として本手伝10名、助手伝6名がおり、その他御用赤絵屋、
御用鍛冶屋、御用土伐、御用石工、薪方頭取などの諸職が存在ていました。
?) 多くの職人によって磁土の精製、成形、下絵付け(染付)、本焼き、上絵付け(色絵)、
上絵の焼き付けなどの工程が分業で行われ、さらに原料の磁土を採掘する者、窯を焚く為の
薪を供給する者など、多くの人材が関わっていました。
?) 本焼きまでは、大川内山窯で行われ、上絵付の作業は有田の赤絵町で行われていました。
(尚、初期の頃は大川内山窯に、絵付け工房が併設されていた様です。)
即ち、作品の成形、素焼き、呉須(コバルト)による下絵付、本焼きは、大川内山窯の
職人が担当し、上絵付けからの工程(下絵の上に赤、黄、緑の色絵を施し、再度焼く)は、
有田の赤絵町の職人が担当する、完全な分業が行われていました。
? 鍋島様式。
?) 「御用窯」で作られた作品の九割は、会席膳用の皿や向付け等の食器類と言われています
それらには、特権階級の調度品にふさわしい装飾性が施されています。
他の一割程度は、什器類との事で、茶陶はほとんど焼かれていません。
?) 鍋島御用窯の製品は、意匠成形や絵文様の表現に独自の傾向が見られ、様式化し自由な
表現は許されていませんでした。その為、「御用窯」の作品は鑑別が容易との事です。
但し、製作年を明記した作品が少なく、同じ文様を長期間使うことが多く、年代による
作風の変化を追うことは困難と言われています。
?) 鍋島の色絵は赤、黄、緑の3色のみを用いるのが原則で、まれに黒や紫も使われるが、
伊万里焼の様に、金彩は原則として使われません。
以下次回に続きます。
17世紀初期から19世紀後半(1610〜1865年前後)の肥前の有田郷で製造された染付、色絵磁器の
中に、「鍋島焼」と呼ばれる作品があります。
? 鍋島藩の「御用窯」。
?) 鍋島とは、肥前鍋島藩窯で焼かれた「鍋島御用焼」の略称で、現在では鍋島藩窯の製品を
「鍋島焼」又は、「鍋島様式」と呼ばれています。
但し、当時「藩窯」の言葉は用いられず、「御用窯」「御用焼」「御道具山焼」と表現
されていた様です。
?) 当時茶の心得のある各地の大名は、領内や城内に「御庭焼」称する「御用窯」を築き、
茶道具を作るのが一般的でした。肥前佐賀の鍋島藩に於いても、寛永五年(1628年)有田郷
内山の岩谷川内に最初の「御用窯」を作り、寛文初年(1661年)に南川原山に、次いで
大川内山に移築します。 多くの鍋島焼は、この大川内山の窯で焼かれた物です。
?) 藩窯が有田や伊万里の中心部から、遠く離れた山間の辺境の地の大川内に置かれたのも、
情報漏洩を防ぐ為であったと思われています。
本格的に「御用窯」として活動を始めるのは、1675年頃からと言われています。
? 肥前鍋島の「御用窯」が、他の諸大名の「御用窯」と異なるのは以下の事柄です。
?) 鍋島三十五万七千石の体面を保持しつつ、藩の直営企業として、明治四年の廃藩置県
に至る、約240年間の長期に渡り操業され続けられます。(尚、その後は、今泉今右衛門家に
よって、近代工芸として復興され、21世紀に至っています。)
?) 鍋島藩の監督の中、一定水準以上の高度の磁器を作り続けていました。
?) 窯や細工場、職人の新陳代謝を計り、製品の改良に努めていました。
?) 「御用窯」の製品は一般の市販品ではなく、厳選された上、将軍家、幕府公儀、公家、
各地の諸大名、社寺への献上品や贈答品として使用されていました。
又、上記諸侯からの、指定の意匠や絵文様による特注品の製作も行っていました。
?) 製品は大名社会の生活調度品であり、他の漆工芸(塗り物)や染織工芸と調和を保つ
作品に成っています。
?) 最高級の色絵磁器を製造する為に、監督は元より、原材料(陶石、釉、顔料など)の吟味
製法の標準化、職人の技術の熟練度の向上など、多くの注意が払われていました。
? 大河内藩窯。
?) 磁器の工房は、細工方11名、画工9名、捻細工4名、下働き7名の31名から構成されていた
そうです。他に「御手伝窯焼」として本手伝10名、助手伝6名がおり、その他御用赤絵屋、
御用鍛冶屋、御用土伐、御用石工、薪方頭取などの諸職が存在ていました。
?) 多くの職人によって磁土の精製、成形、下絵付け(染付)、本焼き、上絵付け(色絵)、
上絵の焼き付けなどの工程が分業で行われ、さらに原料の磁土を採掘する者、窯を焚く為の
薪を供給する者など、多くの人材が関わっていました。
?) 本焼きまでは、大川内山窯で行われ、上絵付の作業は有田の赤絵町で行われていました。
(尚、初期の頃は大川内山窯に、絵付け工房が併設されていた様です。)
即ち、作品の成形、素焼き、呉須(コバルト)による下絵付、本焼きは、大川内山窯の
職人が担当し、上絵付けからの工程(下絵の上に赤、黄、緑の色絵を施し、再度焼く)は、
有田の赤絵町の職人が担当する、完全な分業が行われていました。
? 鍋島様式。
?) 「御用窯」で作られた作品の九割は、会席膳用の皿や向付け等の食器類と言われています
それらには、特権階級の調度品にふさわしい装飾性が施されています。
他の一割程度は、什器類との事で、茶陶はほとんど焼かれていません。
?) 鍋島御用窯の製品は、意匠成形や絵文様の表現に独自の傾向が見られ、様式化し自由な
表現は許されていませんでした。その為、「御用窯」の作品は鑑別が容易との事です。
但し、製作年を明記した作品が少なく、同じ文様を長期間使うことが多く、年代による
作風の変化を追うことは困難と言われています。
?) 鍋島の色絵は赤、黄、緑の3色のみを用いるのが原則で、まれに黒や紫も使われるが、
伊万里焼の様に、金彩は原則として使われません。
以下次回に続きます。