我が国の近代工芸は、江戸時代(前期〜幕末)からとされています。
時の権力は豊臣家から徳川家に移り、幕藩体制が確立するに従い、従来と様相が異なる様になります
即ち、焼き物製作が領主経済と結び付き、藩政によって保護され、更に藩の専売制度や、各地の
問屋制度が充実するに従い、作業は分業化され、量産体制へと順次移行してゆきます。
その中でも、肥前の磁器は異常に発達し、活況を呈し、その名声は海外にまで知れ渡ります。
1) 伊万里焼きとは。
伊万里焼は、有田(現、佐賀県有田町)を中心とし、三川内焼、波佐見焼などの肥前国(現、
佐賀県と長崎県)で生産された磁器の総称です。
製品の主な積み出し港が近くの伊万里であったことから、「伊万里焼」と呼ばれていました。
江戸時代に有田一帯で焼かれた磁器は、伊万里焼、柿右衛門焼、鍋島焼などに分別されます。
2) 我が国の磁器製造の始まり。
? 中国の磁器は「元」や「明」との交易で、すでに室町時代には、我が国に伝えられ、茶の湯の
世界では、唐物として珍重されていました。しかし我が国では未だ作る事は出来ませんでした。
? 従来の説では、鍋島藩の藩祖鍋島直茂が、豊臣秀吉の文禄・慶長の役に参加し、朝鮮から
多くの陶工を日本へ連行してきます。これらの陶工の中に、李参平(日本名金ヶ江三兵衛)
がおり、有田の泉山で磁土を発見し、元和2年(1616年)に有田東部の天狗谷窯で、初めて磁器が
焼き始められたとされていましたが、近年の上白川天狗谷古窯址の発掘調査で、上記よりも
更に古い事が判明します。
? いずれにしても、朝鮮から連行された陶工達によって、磁器作りが始められた事は確実です。
当時朝鮮では、白磁が焼成されていましたので、その技術を持った陶工も多かったはずです。
3) 古伊万里
? 現在でも、伊万里市内で伊万里焼が製造されていますが、江戸時代に有田を中心に焼かれた
ものは「古伊万里」と呼ばれています。
? 磁器の生産が始まった1610年代〜1630年代頃までの製品は「初期伊万里」と称されて
います。この時期には、主に染付白磁が作られています。
我が国の磁器の焼成は、染付から始まり、白磁のみはほとんど見受けられません。
? 正保年間(1644〜1646年)に赤絵が創始されます。その後延宝(〜1680年)頃の赤絵が盛んに
製作される様になります。更に、輸出の最盛期を向かえる事になります。
? 古九谷焼も発掘調査より、有田で焼かれた事が判明します。
「古九谷」については、後日お話します。
4) 古伊万里の特徴
? 初期伊万里の時代では、白磁の染付が主で、絵付けの前に素焼をしない「生掛け」技法を
用いています。
?) 江戸初期、中国の天啓年間(1621〜1628年)に染付けの磁器が大量に輸入され、その後
祥瑞(しょんずい)が輸入される様になると、染付磁器の需要(人気)が急増します。
?) 白磁の製作に成功すると、自然に染付けの作品に移行して行きます。
尚、この頃朝鮮では、染付けの磁器はほとんど見つからないとの事です。
顔料の呉須(コバルト)の存在が知られていなかった為と言われています。
?) 当初は中国風の文様でしたが、次第に和風化され「伊万里様式」へと変化してゆきます。
特に寛永年間(1624〜1644年)に、有田郊外の黒牟田山辺田窯や、百間窯で焼かれたと
思われる深鉢などは、本場中国の染付を凌ぐ(しのぐ)作品に成っています。
特に、初期伊万里の染付の大皿や大鉢類は、ほとんど上記二つの窯で焼かれたものです。
?) 初期伊万里で多く焼かれた染付の作品は、小皿、中皿、碗、小壷、徳利で、大皿や大鉢は
むしろ希少であった様です。尚、これらの多くは天神森窯、稗古場(ひえこば)窯で優れた
作品が作られていました。特に著名なのは、「吹墨手」と呼ばれる皿で稗古場窯で焼かれた
物です。
注: 吹墨手(ふくずみて)とは、型紙を置きその上から呉須を吹き掛けるという素朴な技法
です。
以下次回に続きます。
時の権力は豊臣家から徳川家に移り、幕藩体制が確立するに従い、従来と様相が異なる様になります
即ち、焼き物製作が領主経済と結び付き、藩政によって保護され、更に藩の専売制度や、各地の
問屋制度が充実するに従い、作業は分業化され、量産体制へと順次移行してゆきます。
その中でも、肥前の磁器は異常に発達し、活況を呈し、その名声は海外にまで知れ渡ります。
1) 伊万里焼きとは。
伊万里焼は、有田(現、佐賀県有田町)を中心とし、三川内焼、波佐見焼などの肥前国(現、
佐賀県と長崎県)で生産された磁器の総称です。
製品の主な積み出し港が近くの伊万里であったことから、「伊万里焼」と呼ばれていました。
江戸時代に有田一帯で焼かれた磁器は、伊万里焼、柿右衛門焼、鍋島焼などに分別されます。
2) 我が国の磁器製造の始まり。
? 中国の磁器は「元」や「明」との交易で、すでに室町時代には、我が国に伝えられ、茶の湯の
世界では、唐物として珍重されていました。しかし我が国では未だ作る事は出来ませんでした。
? 従来の説では、鍋島藩の藩祖鍋島直茂が、豊臣秀吉の文禄・慶長の役に参加し、朝鮮から
多くの陶工を日本へ連行してきます。これらの陶工の中に、李参平(日本名金ヶ江三兵衛)
がおり、有田の泉山で磁土を発見し、元和2年(1616年)に有田東部の天狗谷窯で、初めて磁器が
焼き始められたとされていましたが、近年の上白川天狗谷古窯址の発掘調査で、上記よりも
更に古い事が判明します。
? いずれにしても、朝鮮から連行された陶工達によって、磁器作りが始められた事は確実です。
当時朝鮮では、白磁が焼成されていましたので、その技術を持った陶工も多かったはずです。
3) 古伊万里
? 現在でも、伊万里市内で伊万里焼が製造されていますが、江戸時代に有田を中心に焼かれた
ものは「古伊万里」と呼ばれています。
? 磁器の生産が始まった1610年代〜1630年代頃までの製品は「初期伊万里」と称されて
います。この時期には、主に染付白磁が作られています。
我が国の磁器の焼成は、染付から始まり、白磁のみはほとんど見受けられません。
? 正保年間(1644〜1646年)に赤絵が創始されます。その後延宝(〜1680年)頃の赤絵が盛んに
製作される様になります。更に、輸出の最盛期を向かえる事になります。
? 古九谷焼も発掘調査より、有田で焼かれた事が判明します。
「古九谷」については、後日お話します。
4) 古伊万里の特徴
? 初期伊万里の時代では、白磁の染付が主で、絵付けの前に素焼をしない「生掛け」技法を
用いています。
?) 江戸初期、中国の天啓年間(1621〜1628年)に染付けの磁器が大量に輸入され、その後
祥瑞(しょんずい)が輸入される様になると、染付磁器の需要(人気)が急増します。
?) 白磁の製作に成功すると、自然に染付けの作品に移行して行きます。
尚、この頃朝鮮では、染付けの磁器はほとんど見つからないとの事です。
顔料の呉須(コバルト)の存在が知られていなかった為と言われています。
?) 当初は中国風の文様でしたが、次第に和風化され「伊万里様式」へと変化してゆきます。
特に寛永年間(1624〜1644年)に、有田郊外の黒牟田山辺田窯や、百間窯で焼かれたと
思われる深鉢などは、本場中国の染付を凌ぐ(しのぐ)作品に成っています。
特に、初期伊万里の染付の大皿や大鉢類は、ほとんど上記二つの窯で焼かれたものです。
?) 初期伊万里で多く焼かれた染付の作品は、小皿、中皿、碗、小壷、徳利で、大皿や大鉢は
むしろ希少であった様です。尚、これらの多くは天神森窯、稗古場(ひえこば)窯で優れた
作品が作られていました。特に著名なのは、「吹墨手」と呼ばれる皿で稗古場窯で焼かれた
物です。
注: 吹墨手(ふくずみて)とは、型紙を置きその上から呉須を吹き掛けるという素朴な技法
です。
以下次回に続きます。