3) 古志野に付いて。
志野は黄瀬戸や瀬戸黒などと同様に、桃山時代以降美濃で焼かれた白い焼き物です。
? 白天目茶碗。
?) 志野の名前が最初に現れるのは、1553年(天正22年)「天王寺屋会記」別名「津田宗及
茶屋日記」によります。この茶会は武野紹鷗(たけのじょうおう、号は大黒屋)が京都の
茶室に宗及らを招いて開かれたものです。
その中に、茶碗は志野茶碗が使われた事が記してあります。
?) 当時の白天目茶碗は三個のみで有った様です。
「天王寺屋会記」によれば、天正22〜24年の間に二百回以上の志野茶碗が登場しますが、
三個の志野茶碗が使い回されます。灰釉による物で、後の志野の先駆けとなる器です。
尚、持ち主は、武野紹鷗(1502〜1555年)、今井宗久、津田宗及が各一個づつ保持してい
ました。
・ 武野紹鷗所持の天目茶碗は、重要文化財として徳川黎明会に収められています。
重文 美濃 天目茶碗 大名物(おおめいぶつ): 16世紀始め頃
高さ 6.5cm、口径 12.1cm、高台径 4.4cm
?) この白色は、高温焼成の為、灰と長石が分離し釉面に、白色化が起きたものと思われます
又、意図的に「明」の白磁を模倣した物では無いかと言われています。
? 古志野は、天正の頃に美濃で初めて焼かれた物です。以前には、瀬戸で焼かれた物と思われて
いました。
?) 後に人間国宝になる荒川豊蔵氏によって、昭和5年4月に古志野を焼いた古窯跡が
初じめて発見されます。
?) その前日荒川氏は、北大路魯山人と伴に、名古屋の素封家、関戸家所蔵の筍の絵のある
志野茶碗を見る機会に廻り会います。良く観察すると高台内に粟粒ほどの赤い土を見出し
ます。この土が瀬戸の物とは違い、美濃の久々利付近の土ではないかと直感します。
翌日魯山人と別れ、多治見に向かいます。
?) 翌々日、従兄と伴に現在の岐阜県可児郡久々利村大萱牟田洞で関戸家で見た筍茶碗と
瓜二つの茶碗の欠片(かけら)を発見します。伝来の古志野がこの地で焼かれた事を確信
します。更に堀進むと鼠志野の大鉢の欠片を発見します。
?) 昭和6〜8年に掛けて、高根窯、浅間窯、隠居山窯、元屋敷、大富、定林寺、恵那郡の
水上窯、猿爪窯、大川窯、郷ノ木窯などを発見調査します。これらの窯では、安土桃山
時代に志野の他、黄瀬戸、瀬戸黒などが焼かれていた事が初めて解かります。
?) 桃山時代に志野が焼かれた古窯は以下の場所にあります。
a) 牟田洞窯: 岐阜県可児町大萱。 天正5年(1577年)加藤源十郎景成が開窯。
志野の名品がこの窯で焼かれたと言われています。
国宝 志野茶碗 銘卯花墻(うのはながき): 三井記念美術館蔵
筍絵志野筒茶碗 銘住吉:
などの破片がこの窯から発見されている事から判明します。
b) 窯下窯: 大萱。 鼠志野と黄瀬戸の名品が焼かれています。
c) 中窯: 大萱。 優れた志野を焼いていますが、特に紅志野が多い。
d) 由衛門窯: 可児町大平。 絵志野の良品が出土します。
e) 高根東窯: 土岐市泉町久尻。 特に練り込み志野が良い。
高根西窯: 土岐市泉町久尻。 赤志野を焼いた窯として有名です。
f) 元屋敷窯: 土岐市泉町久尻。 美濃で最初の連房式登窯を築いた処で、志野も焼かれ
たが、織部焼きの源となった窯として重要です。
以下次回に続きます。
志野は黄瀬戸や瀬戸黒などと同様に、桃山時代以降美濃で焼かれた白い焼き物です。
? 白天目茶碗。
?) 志野の名前が最初に現れるのは、1553年(天正22年)「天王寺屋会記」別名「津田宗及
茶屋日記」によります。この茶会は武野紹鷗(たけのじょうおう、号は大黒屋)が京都の
茶室に宗及らを招いて開かれたものです。
その中に、茶碗は志野茶碗が使われた事が記してあります。
?) 当時の白天目茶碗は三個のみで有った様です。
「天王寺屋会記」によれば、天正22〜24年の間に二百回以上の志野茶碗が登場しますが、
三個の志野茶碗が使い回されます。灰釉による物で、後の志野の先駆けとなる器です。
尚、持ち主は、武野紹鷗(1502〜1555年)、今井宗久、津田宗及が各一個づつ保持してい
ました。
・ 武野紹鷗所持の天目茶碗は、重要文化財として徳川黎明会に収められています。
重文 美濃 天目茶碗 大名物(おおめいぶつ): 16世紀始め頃
高さ 6.5cm、口径 12.1cm、高台径 4.4cm
?) この白色は、高温焼成の為、灰と長石が分離し釉面に、白色化が起きたものと思われます
又、意図的に「明」の白磁を模倣した物では無いかと言われています。
? 古志野は、天正の頃に美濃で初めて焼かれた物です。以前には、瀬戸で焼かれた物と思われて
いました。
?) 後に人間国宝になる荒川豊蔵氏によって、昭和5年4月に古志野を焼いた古窯跡が
初じめて発見されます。
?) その前日荒川氏は、北大路魯山人と伴に、名古屋の素封家、関戸家所蔵の筍の絵のある
志野茶碗を見る機会に廻り会います。良く観察すると高台内に粟粒ほどの赤い土を見出し
ます。この土が瀬戸の物とは違い、美濃の久々利付近の土ではないかと直感します。
翌日魯山人と別れ、多治見に向かいます。
?) 翌々日、従兄と伴に現在の岐阜県可児郡久々利村大萱牟田洞で関戸家で見た筍茶碗と
瓜二つの茶碗の欠片(かけら)を発見します。伝来の古志野がこの地で焼かれた事を確信
します。更に堀進むと鼠志野の大鉢の欠片を発見します。
?) 昭和6〜8年に掛けて、高根窯、浅間窯、隠居山窯、元屋敷、大富、定林寺、恵那郡の
水上窯、猿爪窯、大川窯、郷ノ木窯などを発見調査します。これらの窯では、安土桃山
時代に志野の他、黄瀬戸、瀬戸黒などが焼かれていた事が初めて解かります。
?) 桃山時代に志野が焼かれた古窯は以下の場所にあります。
a) 牟田洞窯: 岐阜県可児町大萱。 天正5年(1577年)加藤源十郎景成が開窯。
志野の名品がこの窯で焼かれたと言われています。
国宝 志野茶碗 銘卯花墻(うのはながき): 三井記念美術館蔵
筍絵志野筒茶碗 銘住吉:
などの破片がこの窯から発見されている事から判明します。
b) 窯下窯: 大萱。 鼠志野と黄瀬戸の名品が焼かれています。
c) 中窯: 大萱。 優れた志野を焼いていますが、特に紅志野が多い。
d) 由衛門窯: 可児町大平。 絵志野の良品が出土します。
e) 高根東窯: 土岐市泉町久尻。 特に練り込み志野が良い。
高根西窯: 土岐市泉町久尻。 赤志野を焼いた窯として有名です。
f) 元屋敷窯: 土岐市泉町久尻。 美濃で最初の連房式登窯を築いた処で、志野も焼かれ
たが、織部焼きの源となった窯として重要です。
以下次回に続きます。